1億総つぶやき時代に、個人のtwitterをハッシュタグのようにまとめたtogetterや、痛いニュース(2chの反応)などをよく見ている。
ダダ漏れするきわめて無責任で私的な感想の中に、ときどきハッとするような(よく考えられた)意見や、自分が思いもしなかったような意見が出てきて面白い。
思えば、サンデーモーニングのような「街の声」は、筑紫哲也の頃からTBSをはじめテレビ局の得意技で、NHKも世論調査と銘打って「電話アンケート」をするわけだが、メディアが主導するこのような「プチ討論」には、そもそも「問いかけの様式」が「メディアが意図した答えを引き出す」というバイアスがあることを考えなければいけない。
今日も、某テレビ局が「本国会中に消費税法案を通すべきか?」という問いをしていた。
これに対し、「No」が6割にも上ると言う。やはり、この場合、「No」の6割を分ける意味でも、「では、どうすれば消費税法案に賛成されますか?」という二択では答えられない問いをしなければならないだろう。
そういう意味で、テレビメディアの世論調査の限界はとうに感じているのだが、ここで
Blogosである。
主に文化人や専門家が発するブログから記事を取ってきてネット上で討論を行う。
もともと取り上げられてる議題にしょうもない意見もあって、質のいいメディアだとは私は思っていないが、それでも知らないようなことが網に引っかかってくる事があるので見ている。
今日は、とある群馬県桐生市議の「過激なブログ」とそれに対する「辞職の要望書」についての話題が出ていた。この人は、ブログを読む限り、「自分の信念」に従って行動する「橋下さん的」政治家を自認していると見えるが、どうも様相としては「阿久根市長を巡るそれ」に似てきていると思う。
kotoba で與那覇潤が書いているように、旧中国的な「徳治主義による統治」は、西洋と異なり「自由主義なき民主主義」を生む。政治的な成熟のない国では、道徳による統治は「100%正しい俺と1%も正しくないお前」を生んでしまう。
原発問題は、国の存在根幹に関わる問題である事は理解できます。脱原発を唱える人が、「この機会を逃したら日本は破滅の道に向かう」と危惧して声を大きくする理由もわからないではない。私も決して原発推進ではない。しかし、このブログは、まさに「わたしは正しい。私のことを認めない人間はバカだ」と言っているように聞こえる。
私は、ネットで万人が発言できる自由なフィールドにおける前提のルールとして、「全てのオピニオンを(好き嫌いはともかくとして)認める」ことと、「少数意見を尊重する事」が必要だと思っている。そういう姿勢でこそ、「正しく情報を選別し」、「自分と意見を同じくする人、もしくは意見は違っても自分と同じ目線で議論できる人」に対する信頼が生まれると思っている。情報を選別する目を持つ事は、実は人を信頼する事と同じではないかと思う。
残念ながら、ひとたび「信頼できない」言動をキャッチしてしまうと、急速にその人の言動から離れていく自分がいる。恐い事だ。「発信する情報すら、都合のいいように使い捨てされる」時代なのか、と近頃良く感じる。
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