2012年6月28日木曜日

何にお金を払うのか

消費税増税法案が衆議院を通過し、民主党が割れようとしている。
小沢新党は、増税反対に加えて、脱原発もスローガンとして国民運動を行うらしい。
私の理想は北欧型の高負担、高福祉国家であるので、消費税が上がる事自体は反対ではない。しかし、社会保障とのセットでない増税は反対とか、高所得者への優遇を減らすためにも所得税や法人税の見直しこそ優先すべきとかさまざまな意見があって、一筋縄では行かない。

今日は、「消費行動」について考えてみたい。
今日のBLOGOSに次のような記事がある。

http://blogos.com/article/42056/?axis&p=5

スマートフォン全盛時代に、音楽を聞くという行為は、音楽ファイルのダウンロードと併せて、いとも手軽な物となってしまった。僕がまだ中学生の頃までは、好きなCDを借りてきて、自分なりのオリジナルのMDにしていたことを考えると、mp3あたりから急速に簡易化していった感は否めない。佐久間さんの発言にいろいろな意見があるのだが、

「文化的には、100万枚売れるアーティストが1組出るより、1万枚売れるアーティストが100組出る方が正しい」という発言がとても印象的であった。

庶民にとって、音楽とは「時代を語るもの」であったり、「自分の当時の姿」を思い出させてくれるモノである事が多いのではないか?カラオケで共に唄う歌に「同じ世代としてのシンパシー」を感じる人も多いだろう。だからこそ、懐メロ。

ジャズやクラシック、ロック、カントリー、フォーク、テクノ・・・
本当の音楽好きは、今でも音楽の中で日々を過ごしているはずだ。

ということは、庶民にとって「ラジオをひねれば流行の曲が聞こえてくるくらい」身近であった音楽こそが、失われてしまったといえるのではないか?今やCDが付属となり、パッケージ化されているという。

音楽の持つ二つの側面を考えなければならない。つまり、ラジオをひねれば流れてくる受動性(手軽さ)と、年に1回の野外フェスのためにバイトをし、夜行バスに乗り、皆と一体化する能動性(イベント性)。


結論から言ってしまえば、音楽のイベント性は、やっぱり少数の「文化的生活を重んじる」人たちの物なのだろう。國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」でも描かれているテーマ。大多数のその日暮らしの労働者と、中世ヨーロッパ貴族的生活を好むブルジョワ。
世界は、受動性と手軽さを「便利」という二文字に置き換えて、進んでいるに過ぎない。

この前のブログでも述べたが、「わずかなパイを奪い合う」ことが音楽業界でも起きていると考えざるを得ない。

考えようによっては、「退屈をまぎらわすコンテンツが多様化した結果、音楽や映画(映像)が、ワンノブゼムに成り下がった」と考える事もできるだろう。しかし、ここにそう単純には片付けられない厄介な問題がある。それは、すごく保守的な言い方をすれば、「音楽や映画(映像)の持つ歴史という時間性と人(にかぎらず、生命)の原始知覚に訴えかける魔力」だと思っている。
 自分の経験に照らされ、音楽に・映画(映像に)唐突に涙するという経験を誰しもが持っている。私は、このデジャブに似た経験は、我々の人生において必要な礎だと思っている。翻って、現代の人は、あまりにも多くの情報に囲まれすぎていて、知識を抜きに五感を働かせる経験が減っているのではないだろうか??

 何故そう思うか、それは最近おいしい日本酒をよく飲むからである。
以前にも書いたが、燗番師の多田さんがいる「ふしきの」では、酒器による日本酒の味の変化を教えてくれる。幅の狭いおちょこと、幅の広いおちょこで、日本酒を味わう舌の場所が変わるため、味が変わるのだ。日本酒のもつ、甘味、苦味、雑味、酸味などは、もちろんお酒毎に特徴が変わるのだけれど、器や温度で大きく異なる。
ワインだって焼酎だってそうなのかもしれないが、多くの人は、「やっぱり久保田は美味しいねえ」になるんじゃないか、と思う。これも、情報や知識により縛られている証拠だ。

話がそれたが、私は、ネームブランドや、ミシュランや食べログの、店の★の数にお金を払うのではない、と思う。
 もちろん、格式高いホテルにお金を払う人がいるのは結構なのだが、自分の経験を豊かにしてくれるもの、にお金を払い、消費をする。このことの意味を今一度見つめ直すべきだろう。特に、聴覚や味覚は、目に見えない物。目に見えない物は共有しにくいんですよねえ。この視覚認知優位時代!!

そういう意味で自分は今、幸せだと思う。

2012年6月22日金曜日

kotoba 2012夏号を読む

特集は、「新世代が撃つ。」
日本のジレンマに出ていたような新世代論客のインタビューが中心。

テーマが多岐に渡っているので、やや散漫な印象は否めないが、ここでも荻上チキ&大野更紗の話が面白かった。以下感想。

「困ってるひと」大野更紗のモノを書く動機はわかりやすい。難民問題の研究者を目指して活動しているうちに、自分が難治の自己免疫疾患に罹患し、ニッポンで「医療難民」になってしまった。「困ってるひと」のニーズを掬い上げ、声にしていく活動は、我々のような障害のある人を見ていく立場でも、本当はもっと活動していかなければいけない点だと思う。

さて、そんな彼女の「日本型福祉の課題」をまとめてみよう。

もともとの日本型福祉=「家族内福祉」+「企業内福祉」
現在の社会状況=核家族というユニットの維持に必要な費用を男性一人が稼げない
(家族の革命の進行)
→女性が家族内で担ってきた福祉サービスの外部化の必要

格差と貧困の拡大→内なる途上国たる日本

必要なものは、「個人ではなくシステムとしての、持続可能なセーフティーネット」

その議論を妨げるもの=乱立するムラ


この、「日本がムラ社会であり、多くの閉鎖的なムラから成り立っており、ムラ同士の共通言語がない」という問題は、かなり根深い。

ひいては、困っている当事者同士でさえ、他のムラへの関心がなく、公的福祉の小さなパイを奪い合う結果となる事がある。と言う指摘は鋭いと思った。
「言論の多様性を日本でどのように確保するか?」という問い。
日本におけるリベラルの存在意義とアイデンティティが問われている。

単一民族国家、鎖国の経験、恥の文化、ムラ社会、敗戦・・・

ディベート教育の必要性を感じさせる言葉ではないか・・・

このへんは、自分の今の問題意識に直接につながるところ。

医者のムラ意識は、ときに看護師やコメディカルとの協調性の欠如という形を取る。
ときに、患者への説明が自らのリスク回避に終始する事になる。
医学会で行われている議論は、医者以外には非常に見えにくい。
小児領域でいえば、心理、学校、作業所、保健所、行政など地域のリソースに関する無 知と非連関。

彼女の開いたイベント「うちゅうじんの集い」は、ネット動画で一部見たが、見事に学際色豊かである。

2012年6月14日木曜日

システム神経科学シリーズ 池谷裕二先生

何を隠そう、認知科学、システム神経科学に興味を持ったのは、この人の本を読んだからだ。「脳は何かと言い訳する」だったか、とにかく頭がいい人だと思った。
 僕は、人の賢さって何かと言われたら、その一つに「教える能力」があると思っている。つまり、専門家、一般の人、学生など、様々なカテゴリーの人たちに、時には違う形で語りかける言葉を持っている人。
 「単純な脳、複雑な私」の中で池谷先生は、「脳は同じ回路を使い回す」という表現をされていたはず。つまり、研究とはニュートンのリンゴのようなシンプルな仮説から始まるのだということ。もちろん背景を全て語り尽くすには実験に実験を積み重ねないと行けないのだろうが、こんな風に(本を通して)語りかけてくれる人はいなかったと思う。

 前置きが長くなったが、そんな池谷先生が講演に来ていただけたのである。
テーマは「神経回路をメゾスコピックな視点から捉え直す」うーん、難しそう。

でも、話はとてもわかりやすい。
シナプスの働きは、アナログ回路をデジタル回路につなぎかえるようなもので、そのためには上流のニューロンからの同期入力が必要である。自発的なニューロンの活動には法則性があり、その一つの大きな特徴が、対数正規分布に従うシナプス結合強度を持つニューロンの存在である。これは、「世の中は、ごく一部の金持ちと、大多数の貧乏人からなっていて、ごく一部の金持ち(結合強度の強いニューロンのネットワーク)は安定している。」のと同じである。

面白かったのは、100人の人が10ドルずつ持っていて、ランダムな1人に1ドルを渡すという行為を繰り返したときに、最終的にはたくさんお金を持つ数人と、持っているお金が減る多数に分かれるという話。この出典が調べてもよくわからないのだけれど、
「すべて平等な条件で行われる試行でも、数を増やしていくと自然と不平等になる(対数正規分布に従う」という話。なるほどーー。だから、脳もそのシステムを採用しているのか、というすごい説得力のある話。

 80対20の法則で、「研究室の8割の業績は2割の人があげる」という話。
「脳、お前もか・・・」には笑った。

 しかし、その少数の強いシナプスだけが情報を伝えるのに必須なのではなく、やっぱり
広範囲に可塑性を示す「弱いけれど揺らぐニューロン」がないと、人間はダメらしい。
池谷先生の説では、「記憶とは弱いニューロンの作る背景ノイズの変化による回路の形が変わる事」という説は、とても夢があるものだと思った。質感・クオリアを感じる事が人間がもつ「特殊技能」であるとすれば、莫大な「弱いゆらぎニューロン」が持つ「情報の質的多様性」こそが、巨大な脳を持つ人間に許された本質的豊かさなのかもしれない。

ホント、感動しました。

最後に、池谷先生の素晴らしさは、このホームページの言動にもあらわれています。
本当の科学者にはなれないけれど、こういうのにワクワクできるということをしあわせに思うし、若い小児科医にも伝えていければと思う。
http://gaya.jp/media/what_is_science.htm#D1

2012年6月11日月曜日

情報の選別と信頼

1億総つぶやき時代に、個人のtwitterをハッシュタグのようにまとめたtogetterや、痛いニュース(2chの反応)などをよく見ている。
 ダダ漏れするきわめて無責任で私的な感想の中に、ときどきハッとするような(よく考えられた)意見や、自分が思いもしなかったような意見が出てきて面白い。
 思えば、サンデーモーニングのような「街の声」は、筑紫哲也の頃からTBSをはじめテレビ局の得意技で、NHKも世論調査と銘打って「電話アンケート」をするわけだが、メディアが主導するこのような「プチ討論」には、そもそも「問いかけの様式」が「メディアが意図した答えを引き出す」というバイアスがあることを考えなければいけない。
 今日も、某テレビ局が「本国会中に消費税法案を通すべきか?」という問いをしていた。
これに対し、「No」が6割にも上ると言う。やはり、この場合、「No」の6割を分ける意味でも、「では、どうすれば消費税法案に賛成されますか?」という二択では答えられない問いをしなければならないだろう。

 そういう意味で、テレビメディアの世論調査の限界はとうに感じているのだが、ここで
Blogosである。
 主に文化人や専門家が発するブログから記事を取ってきてネット上で討論を行う。
 もともと取り上げられてる議題にしょうもない意見もあって、質のいいメディアだとは私は思っていないが、それでも知らないようなことが網に引っかかってくる事があるので見ている。

 今日は、とある群馬県桐生市議の「過激なブログ」とそれに対する「辞職の要望書」についての話題が出ていた。この人は、ブログを読む限り、「自分の信念」に従って行動する「橋下さん的」政治家を自認していると見えるが、どうも様相としては「阿久根市長を巡るそれ」に似てきていると思う。

 kotoba で與那覇潤が書いているように、旧中国的な「徳治主義による統治」は、西洋と異なり「自由主義なき民主主義」を生む。政治的な成熟のない国では、道徳による統治は「100%正しい俺と1%も正しくないお前」を生んでしまう。

 原発問題は、国の存在根幹に関わる問題である事は理解できます。脱原発を唱える人が、「この機会を逃したら日本は破滅の道に向かう」と危惧して声を大きくする理由もわからないではない。私も決して原発推進ではない。しかし、このブログは、まさに「わたしは正しい。私のことを認めない人間はバカだ」と言っているように聞こえる。

 私は、ネットで万人が発言できる自由なフィールドにおける前提のルールとして、「全てのオピニオンを(好き嫌いはともかくとして)認める」ことと、「少数意見を尊重する事」が必要だと思っている。そういう姿勢でこそ、「正しく情報を選別し」、「自分と意見を同じくする人、もしくは意見は違っても自分と同じ目線で議論できる人」に対する信頼が生まれると思っている。情報を選別する目を持つ事は、実は人を信頼する事と同じではないかと思う。
 
 残念ながら、ひとたび「信頼できない」言動をキャッチしてしまうと、急速にその人の言動から離れていく自分がいる。恐い事だ。「発信する情報すら、都合のいいように使い捨てされる」時代なのか、と近頃良く感じる。