2012年7月19日木曜日

舞城王太郎 短編五芒星

新潮7月号の「おいしいシャワーヘッド」が傑作だったので、芥川賞候補となったこの短編集を発売日に購入。

初期の舞城のイメージからずいぶん変わった気がする。

「美しい馬の地=カッパドキア」
 衝動について。
 
 ”つまり人の行動のあらゆる場面でこの、根拠も理由もない、ゼロからポンの衝動としか言いようのない者が働いているのだ”

 人は意味なんてない衝動により突き動かされ、そのどうしようもならないものに慰められる。

 ”僕に、誰かを好きになる経験があって良かった。相手を好きになる事に、根拠も理由もないのだ。そして誰かの事を好きになることを衝動と言ったりはしないけれど、しかしそれは同じものなのだ。人は自分たちではどうしようもないものに突き動かされ続けている”

こういうストレートな表現は心地いい。「怪我をした人を見てほっとけないだろ」という吉田に対し、「それも衝動の類いだろうか?」という疑問がよかった。悪や罪のないところに怒りを持ち込んではならない。そこにあるのは、「悲しみ」だけだ。

 確かに、衝動的な悲しみはピュアな情動と思えるが、衝動的な怒りは、不純な感じがする。思想や優越感、見下しなどを入れずに「ピュアに怒る」ことができるだろうか、と自問してみるがわからない。

「アユの嫁」
 
”これから確かにいろいろあるやろうけど、時間分しか物事は進まないし、時間分だけ物事は進むから、頑張っていくしかないわな、皆が”

「バーベルザバーバリアン」

"鍋うどんのきしむ骨と張りつめる肉のイメージは人間の内なる自然、森の中の物音と同じくなかなか聴けないけれども常に鳴っている何かと同じものであって、それに触れることが俺の話を聴く人間にしみじみとした感興を与えるんじゃないのか?
 いとをかし、という古い言葉を高校の授業で習った時、その趣のある面白さは英語にはないのだと聞いた。”

内的表象、心的イメージを正しく言語化できているのか、言葉にしないで消えていく感情や情景はどこに行くのか?

「あうだうだう」
善悪について。善と悪は同居していてよい。悪いけど殺さない、っていう女性的な正義。
悪人を愛せますか、という問い。愛さなくてもよいから慈しもうという姿勢か、生態系の連鎖関係のようなゆるやかなつながりが大事。


苦役列車 映画感想

信州旅行の帰りに、新幹線まで時間があり、かといって暑くて観光する元気もなく、たまたま通りかかった映画館で「苦役列車」を鑑賞。その名も「千石劇場」

クーラのかかっていないガラガラの祝日の夕方、不快指数99%の館内で、この暑苦しい映画を見たので、結構リアルに鑑賞できた気がする。

感想(ネタバレ)

これは西村賢太が酷評した通り、ちょっと残念だったかな。
森山未來はよかった。高良健吾も悪くはなかった。田口トモロヲ、マキタスポーツも。

でも、個人的には、前田敦子の中途半端さがなんとも気になった。
文学好きで古本屋でバイトして、遠距離だけど貫多とも友達になって、ボウリングに行って、服のまま海に入る。このキャラが僕には掴めないのだ。日下部の彼女が、中沢新一や四方田犬彦にかぶれた、憎むべき世田谷・下北好きインテリとして描かれているのと対照的なのかといえば、そうでもない。19歳の貫多が恋に落ちる対象としての考察が決定的に足りていない、と思った。

「友達なんていらない、ヤラセロ」と迫る貫多に頭突きをくらわせるシーンは良かったが、やっぱりキレいすぎるんだよなあ。AKBのセンターは。
 どう見ても、セクシー・エロ系を配するべきだったと思うなあ。個人的には夏目三久にやってもらいたかったわあ。

このキャスティングは、期待7割、不安3割だったのだが、どうも失敗に終わったと感じた。AKBを卒業した前田敦子の転機となる作品が、(おそらく興行的にも)コケた感じがして今後が心配になります。

 この物語の主題は、「どっこい、しぶとく生きとるわい」だと思うわけで。
 最後のシーンで出てくる鴬谷の「信濃路」は、西村賢太の行きつけの店らしく、有名になった今も通っているそう。「そこで撮影を行ったのも腹が立つ」とブログに書いていたなあ。
 印象に残ったシーン:「動物ごっこ」 これは最高。


2012年7月16日月曜日

信州旅行 メモ

7/15-16  信州 戸倉上山田温泉へ

7/15  長野新幹線で長野→善光寺へ。
 長野市内は3年ぶりに中央通りで長野祇園祭。
 お酒の高野 森の喫茶店 
 
 善光寺では、暗闇の戒壇巡り。
 混雑しているため無音ではないのだが、光のない世界に流れる時間。
 また、闇が人間に与える不安感をリアルタイムに実感する事ができる。
 これは貴重な経験だ。人間はお金をかけなくても新しいものを知覚できるのです。

お酒の高野で信州の地酒を物色。駅前には真澄、西之門などがおかれていたが、ここには
佐久の花、大信州の二枚看板が。うーん、とりあえず荷物になるので物色だけ。

その後、しなの鉄道で戸倉上山田へ。
むー、南房総にも似た、まさに寂れた温泉街。

しかし、笹屋ホテル豊年虫は、有形文化財。志賀直哉、若山牧水、井上靖なども愛した老舗旅館。めちゃくちゃくつろげた。

夜は地元のお祭り。これがすごい。ヤンキーメイクのオール女子による神輿!
この街で生きていくためには、ヤンキーになるしかないと思わせるほどの壮観。。
僕はこの街では生きていけないな、と。

射的のみどり、のおじさん。「射的は楽しんでもらえばいいの。それしかファミリーで楽しめるところないんだもん」 ヤンキー色が目立つ街並でちょっと癒されました。

締めは花火。田舎の花火は、近い。。
スナックのお客さんも、みんな出てきてほのぼのとした感じ。
花火が終わったら、客引きが盛んなのも夏祭り的だね。ちょっと治安的に不安だったので
早めに宿に帰還。

2日目は戸隠。奥社から九頭竜社、中社と経由して蕎麦茶屋極楽坊の戸隠蕎麦を堪能。これは絶品。あとから食べログ見たら、★3.76 の高得点。
 しかし、暑い暑い・・・消耗激しく、前日下見した高野で大信州超辛純米など3種を購入し、モヤさま風に喫茶店探し。新幹線まではまだ時間があるなあと思っていたら、なんと「千石劇場」を発見!「苦役列車」ちょうど上映時間・・・

映画館は薄ら暗く、節電かクーラーなし!お客さん5人ぐらい。映画の内容ももちろん
劇暗・・・ある意味、ここで見れたのは奇跡か?
 最後、森山未來がチンピラにぼこぼこにされる店が、「信濃路 鴬谷店」のオチまでついてる。うーん、偶然が重なるにせよ、素晴らしい旅の過ごし方だ。

今回の感想。
 寂れた温泉街は、個と宿の関係性だけで成り立ってしまうので、個と街の関係にはならないんだな。お祭りを楽しんでいる地元の人の姿は活気があって良かったが、かえって日常の退屈さを想像させるものだった。まさに、つげ義春の世界。
 でも、宿の佇まいは、歴史が積み重なったそれであり、温泉宿としてはそういう街の寂れも含めて肥やしになるのだなあという事。


 この両立って実は極めて難しい事。射的屋の主人、スナックに頼らないためには、まんじゅうやら何やらかんやら、産業を生み出していかないと行けない。草津はたくさんは生めないよ。そりゃ。
 でも、ヒントはあるような気もする。一つは、宿坊スタイル。極楽坊のような「宿泊客向けの美味しい料理」を、いかに観光客全体に広げていくか。。合併などによる業界再編
が可能なのかどうか?観光客にとって必要な、足りない店は何なのか?
 信州は農作物の宝庫。軽井沢とは違う形での反映の仕方があるといいなあ、と思う。




2012年7月12日木曜日

新潮8月号 山下敦弘×西村賢太 対談 を読む

西村賢太が、ブログで「苦役列車」の映画批判をした事が話題になって、この対談。
タイミングとしても、これは見ないわけにいかないと購入。

最初は、和気藹々と、小説と映画という手法の違いをお互いに理解した上で、特にディテールのセリフや小道具、チョイ役の役者の話などで盛り上がる。

しかし、対談の後半、私小説にこだわる西村賢太の、「映画そのものの作り方の姿勢」に対する文句ともとれる強い批判が山下に投げかけられるところは、読んでいて緊迫感すら覚えた。

西村は、山下の映画に対して、「原作者に遠慮をしたのか、貫多=過激な寅さん、をもっとハチャメチャにしても良かったのでは」と言う。
山下は、「貫多=過激で小心者の寅さん」として捉える。西村曰く、「私小説は、実際に体験した事から書くという制約の中でしか物語を作る事ができない。一方、映画には、たとえノンフィクションの原作であっても、一つの作り物であるというで、“いかにまとまりのある虚構”にまとめるかという作業である。その点から、映画と言う作品を見る上でのたっている場所が違うため、不満のようなものがどうしても残ってしまう。」

それに対して、山下は「小説は一人で作る世界なのに対して、映画は大勢に作るものであり、写真や映像、役者という生身の人間、その演技、その中にある嘘であっても芝居としてリアルかどうか、という作り方そのものの過程が違う。そういう意味では、私小説に原作を得た今回は、演出に無理をしなくて良く、丹精に貫多を作り上げる事ができた」と自負する。
そのうえで、当初好意的だった西村の態度の豹変を「不可解」と咎める。

それに対する西村の一言がすごい。
「原作者は、見てつまらなかった映画をどこまでも褒めなきゃいけないとでもいうんですか?」
(中略)
「小説書きは・・・僕なんかは、私小説と言う事で批判ばっかされて叩かれ続けてるから、免疫ができていますが。どうですか、また懲りずに私小説の映画化に挑戦するお気持ちはありますか?」

なんという怨念。まあ、その辺の理由は、山下のこの映画の作る視点によるところが大きいだろう。次の一文。

山下「北町貫多って見ていて面白いし、魅力的なんですよ。一方で、相手役の日下部というキャラクターがいて、僕はどちらかというと日下部の側から貫多を見ていたと言う気がします。・・・(中略) 貫多はダメ人間という枠では収まらない気がします。もっと巧い言葉はないのでしょうか?」

西村「青春の落伍者、と言ってほしいですな。まっとうな青春からは落ちこぼれたけど、まだ人生は終わっていない。どこかで必ず一矢報いてやろう。」


こりゃ、山下監督では荷が重かったな?という感じ。園子温か、若松孝二か?
確かに山下敦弘は、向井康介あってのものだし、いまおかしんじにしても、エロはかけても、下流社会の男の執念ってキャラじゃないしなあ。

「どぶねずみみたいに〜 美しくなりたい」(リンダリンダリンダ)を思い出した。
ブルーハーツを女子高生にやらせる監督じゃ、うまが合わないのは当たり前かもなあ?





2012年7月11日水曜日

今週の怒り新党


「確かめもせず人の噂を信じる人が許せない」 by 夏目ミク
「感情こもってるねえ、でも・・・」「噂は信じる方が面白い」 by 有吉
「噂は真実として話す」 by マツコ

ツッコんでほしいところで的確に突っ込む2人は神。

 さらに・・・
「キモい、意味わかんない、ヤバい、うける。」って言って上に立ってる奴に腹立つ。
  by 有吉。これも的確。

2012年7月9日月曜日

笑いについて

「考える人」8月号 笑いの達人を読む。
サルはsocialな笑いを持つのかというのは、簡単なようでいまだ結論が出ていない問題である。笑いの発達変遷にしても、新生児微笑から、あやし笑い、二項関係から三項関係への笑いへと進化し、進化しすぎた脳にとっては、嘲笑、苦笑、愛想笑いなんてモノも出てくる。「笑いは何よりの特効薬」なんてのもあって笑う事のプラス面ばかりが強調されるが、笑いが快情動を引き起こすとして、果たしてギャンブルやお酒の快情動と何が違うのだろうか??

奇しくも、この特集号の中で、養老孟司と立川談笑が同じことを言っている。
「笑いは緊張と緩和の間に起こる」

これは、桂枝雀の言葉だ。要は、笑いは「いないいないばあ」である。なるほど、どれだけ笑いが進化しようとも、原点は二項関係のsocial smileの原点であると。

談笑師匠はもう一歩踏み込む。
「今のテレビのお笑いは、いないいないばあに近い。見た目や一発ギャグのツッコミが多いから、ネタ自体が短く、賞味期限も短い。その点、落語は、人間っていいよねという人間ドラマが含まれ、根本に人生への許しや生きる快感をもたらす安心感が背後にある。本質的には落語は銭湯と同じだという。


 笑いの本質は、「今日も一日お疲れさま」という疲労の緩和にある。疲労が深いほど、安心感も深くなる。


 なるほど、だから寄席は銭湯なのだ。立川談志は「銭湯は裏切らない」といっていたのは、そういうことか?

そう考えると、労働の後の一杯も、この笑いと同じような意味を持つのかもしれないな。だから酒場はすばらしいのだな。
「ほっこりするような、じわじわくる笑い」は、快情動というよりも安心感や安らぎに近いのかもしれないな。笑いが、場を共有している人たちの「これまでに共有してきたもの、空気」により意味が変わるのは、どちらかというと「欲に近い快情動」よりも、「共感に近い空気感」として、より高次に意味を持つからではないのかな?

逆に言うと、「場や空気を共有し得ない状況」での笑いは、時に人を深く傷づける凶器にもなり得るという事か?大津のイジメの問題しかり。人が自分に向かって笑いかけてくる視線を(いやでも)想像してしまう事ほど辛い事はない。それでも人は承認を得たい。
「君は学校になんて行かなくて良い」という承認を、幾ばくかの責任を持ちながら伝えられる人がどれほどいるのであろうか?

被災地を思いやれる人間は、近くの「困ってるひと」に対して、どれほどの想像力を働かせる事ができるのか、そして、つまるところ、我々は困ってるひとに何をできるのであろうか?

2012年7月1日日曜日

「困ってるひと」 感想

ポストゼロ年代のゲンロンブームで、大野更紗の名前は知っていたし、現代思想や、BSフジの情報番組で、障害当事者なんだけどシニカルなモノのいい方が気になっていたわけだが、忙しさを理由に未読でいたのだが、ポプラ社文庫版が発売された事をきっかけに購入し、一気読みした。

 話そのものは、障がい者当事者による壮絶闘病記に過ぎないし、医療者である自分としては目新しい事はないのだが、病状が重い事もあってか、文章に力が抜けている感じがちょうど良いし、何より医療者や家族、友人に至るまで、鋭い人間洞察によるユーモアのある文章の展開が魅力で、一気に読む事ができた。

 そして、患者の立場で書かれた文章が気づかせてくれる事は多い。

・患者さんは、医療者という未知の存在に対して、イケメンであったり、手技が巧いというものを求めており、ときに誇大妄想しているという事

・患者さんは主治医の事を信頼しており(信頼しないと入院生活を送れないという言い方が正しいのかもしれない)、主治医が「患者さんの困っている事」を知ろうとしない(または、日常の経験慣れのために、想像する事ができない)ことで傷ついたり、諦めを与えたりする事。

次の一節
「医師は、患者のデイリーライフにおける「難」を、病院内の世界だけで判断している傾向があると感じ始めていた。」

ほとんどの医師は、研修病院で急性期を中心とした総合的なスキルを学び、専門に進む。これが、医師として成長していくシステムのデフォルトである。慢性医療に携わることや、在宅医療に進むことは、デフォルトの医療の中にはほぼ存在しない。急性期病院で忙しく働く中で、「医師意見書」がいきなりやってくる。それが、患者のどのような援助になるのか、どう書けば患者さんにとって利益になるのか、多くの医師はわからないまま〆切までに書く事を求められてしまう。

 「先生たちの脳内の「シャバ暮らし」のイメージは、せいぜい高度経済成長期、はたまたバブル時代くらいで止まっているということだ。・・・たいてい、献身的に支える妻、優秀な子供たち、ホームドラマにそのまま出てきそうな「ご家庭」持ちである
 勤務医は激務ゆえ、時給換算するとぜんぜん高給取りではないのだが、社会的ステータスや価値観はやっぱりブルジョワっぽい。昭和の「三丁目の夕日」のような、ノスタルジーの幻想につかりまくっているような気がする」

中略

「聖なるパパ」たちは、誇り高く、頑固で、ちょう頑張っちゃう人たちである。ひとは誰しも、自分が「主人公」だ。先生たちにとってわたしは、超ガンバって制作した「悲劇的で美しい作品」なのかもしれない。だから、障害や福祉について、それがわたしにとって生死を分ける問題であるにもかかわらず、軽視し敬遠する。


ずばっと直球の指摘。筆者は、文章の中で何度も主治医に対する感謝を述べているし、医師のキャラクターもおそらく好意的にデフォルメされて描いている。ほぼ全編に渡って、重い病気の暗い闘病を感じさせない、テンション高く突っ走ったタッチで描かれているのだが、随所に今の医療・福祉制度や病院の構造的な問題に対する怒りが垣間見える。それも直球。

「困ってるひと」の感想からだんだん外れてきたが、医者の話。
医者でも、政治家でも、(教師でも?)そうなのだが、早くから「先生」と呼ばれる職業は、社会常識が育ちにくいんじゃないだろうか? 病院でも、指示系統はすべて「医師→看護師」だし、そこに経験は関係ない。医師が自分の仕事を自分で規定する事なく「マニュアル」ができているために。特に在宅・ソーシャルワーク的な「多職種が関わる事が要求され、地道に時間をかけて進めなければ行けない事」に弱い。そもそも、大学の医学部って単科の事も多いし、総合大学でも部活は「医学部」だけ別だったりするし、そもそもが閉鎖的な社会なのである。生死に関わるという職業的特質性ゆえの保守性もあると思うが、私はそのような保守性に違和感を覚える。
 
 医師の学会は、細かく専門化されており、学際的かつ領域横断的な学会は少ない。
 
 きっと、こういう問題って、永田町にも、学校の中にも、原子力ムラにも共通しているんじゃないかなあ。

 最近、行きつけの飲み屋に行っていて良く思う。飲み屋で知らない人と語らう事はとても豊かだ。本来の下町の共同体である、八百屋の○さん、魚屋の×さん、金物屋の△さんっていうくくり。ネットでつながる共同体、シェアハウスで目的を同じくする共同体。

 荻上チキと大野更紗が立ち上げたメルマガ「困ってるズ」も、障がい者当事者のゆるやかな連帯として期待している。