2013年7月20日土曜日

「冷やす」こと

7月上旬の暑さは、ようやく一段落。
神楽坂の路地の喫茶店では、夕方に閉店して水を撒く主人の姿。
夏の日常の光景だ。

「水を撒く」という行為は、なんとなく心も清らかにしてくれる。
水が好きな自閉症の子は、洗濯や洗い物、米を研ぐなどのお手伝いを一生懸命にやる。

「地球熱帯化」の昨今では、どうやって涼をとるかというのは切実な問題である。
暑くなればイライラする。かき氷をほおばる、風鈴の音に耳を傾ける、打ち水をする。思えば「冷やす」という行為の持つ意味は大きい。

冷やすことで保存がきく。腐らずに食料を溜めることができるようになる。体を冷やすことができないと、もっと熱中症が増えるだろう。冷やすことにはエネルギーが要る。だから「電気」が重要な意味を持つ。
 人間は、過剰な内的エネルギーを「熱」という形で外に出す。熱中し、熱狂する。そして、そんな人間の体から発する熱量を「冷やす」という行為はとても重要なものである。
「クーリング・オフ」「クールビューティー」「頭を冷やす」などなど。

「冷やす」ということは、人間が賢く、効率的に生きていくための知恵なのである。

それがどうだろう。ネットでは誹謗中傷が飛び交っている。熱さの押しつけも目立つ。
声高に「反原発」を熱く叫べば叫ぶほど、彼らの発する熱を「冷やす」ためのエネルギーがどこからくるんだろう、などと皮肉りたくもなるのだ。

「クールなだけでは、行動しなければ、何も変えられない」と行動派の人間は叫ぶ。
「冷静と情熱のあいだ」って何だろう? 「Cool  head, but warm heart (ハートは熱く、頭脳はクールに)」世の中を良くしたいと思っていれば、これは最低限の秩序なのではないだろうか?