2012年12月26日水曜日

依存について

先日、熊谷晋一郎先生に、「自立とは依存先を増やすことである」という
講演をいただきました。independent - dependentは対立する概念ではなく、
defaultでいろいろな物に「健康的に」依存できている状態こそが、自立である。
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm

障がい者は、もともとの依存先が絶対的に少ない存在である。それを、障害と呼ぶのだ。

前回のブログにも書いたように、「依存症」にもいろいろある。
多くの精神疾患では、このような依存症状態が、社会性を大きく妨げている。

そして、この自立(independent)- 依存(dependent) の関係が、平野啓一郎の提唱する
個人(individual)-分人(dividual)にも当てはまると思う。

自殺者が後を絶たない理由として、「依存できる分人を増やせないこと」があるのではないか?そういう意味で、身体障害と精神障害はとても似ているのかもしれない。

依存するもの:酒、クスリ、ギャンブル、金儲け、異性、SEX, 買物、タバコ、食事(過食)、ダイエット、美容、最近では携帯、ネット、ゲーム、アイドル、韓流、ジャニーズ・・・

おそらく、最も健康的かつゆるい依存が、「運動」ではないか?
なぜなら、運動は健康に良い。また、運動は疲れる。だから満足感が考えられやすい。
多くの人が趣味として何かしらのスポーツや散歩を楽しむのは理にかなっている。

次は、おしゃべりであろうか?喫茶店で仲のいい人とおしゃべりを楽しむ。
ここにはコミュニケーションの難しさもあるので得意不得意はあるであろうが、お酒を通じたノミニュケーションもこの一つだろう。

 依存することそれ自体は、何らかの「快情動」と結びついてなければ健康的とは言えない。もちろん、自傷行為が「快情動」であったり、SMじゃないと感じなかったりという「倒錯」が孕む危険もあるし、特に薬物などの依存症で顕著なように、快情動を引き起こす閾値が上がってしまい、健康を害する結果となることもある。

 そうしてもう一つ、人間を行為へと突き動かす原動力は「欲望」である。動物的なリビドー。地位・名誉・お金・名声・成果・・・野心がないと決して成功はしないと考えられてもいる。
 その対極にある「諦念」。
 人生、諦めたら終わりだという考え方と、諦めざるを得ないという現実。
 「桐島、部活辞めるってよ」に描かれる“生まれながらの不平等”。

 自分に出来ることを考える。出来ないことも考える。考えるがしかし、よくわからない。迷いがないということは、幸せだ。迷いを断ち切ることが出来るのも、また。

窃盗癖(Kleptomania)について

児童相談所の相談ケースを担当するようになって、万引き少年と出会う機会が増えた。
どんな凶悪そうな奴かと身構えていると、拍子抜けするようなあどけない少年、ということが往々にしてある。

だいたいは、非行の理由を「出来心」と話すのだが、得てして行動は刺激を求めてエスカレートしていく。これは何故なのだろう?

DSM-4-TRでは、窃盗癖(Kleptomania)は、「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」の章に分類されている。そのため、衝動性の高いADHDなどの発達障害をベースとしている可能性についても話題となっている。
 また、アルコール依存などと同様で、病的盗癖は、窃盗行為への衝動、欲望、誘惑に抵抗できないところで似ているようだが、臨床の現場では、女性に多く、アルコール依存よりも過食傾向の摂食障害に多いようである。

そう考えていくと、アディクション(嗜癖)には、アルコールや薬物などの「物質嗜癖」、恋愛やセックス、共依存、DVなどの「人間関係嗜癖」、買物依存やワーカホリックなどの「行動プロセス嗜癖」に分けられ、窃盗癖もこの「行動プロセス」への嗜癖だと言えそうだ。

治療としては、精神療法、認知行動療法に加えて、アルコール依存にも用いられるオピオイド拮抗薬「ナルトレキソン」、SSRI 、トピラマートなどが効果があるよう。

 難しいのは、他のアディクションも同様だが、物理的な隔離などの外的な力は、一時的な抑止力に過ぎないことである。ここでも自助グループの存在は重要である。本人に「逃れたいが逃れられない」という気持ちがあるのであれば、ピアサポートとのミーティングに通い続けないといけないだろう。

2012年12月19日水曜日

システムを変えるということ

 脱官僚をスローガンに掲げて、撃沈した民主党。政権に返り咲いた自民党安倍総裁も、
早くも公務員制度改革を掲げ、デフレ脱却に向けた日銀に対する金融緩和の要請を強める構えである。
 
 さて、私が最近思うのは、「本当に官僚=悪、なのか?」という素朴な疑問である。
もちろん、天下りの横行、利権の温床、という「官僚的体質」が、政財官癒着を産み、腐敗体質を作ってきたのは事実であろう。しかし、経済成長期のズブズブだった時代はもうとっくに終わっている。「今も官僚たちってそんな考え方なの?」である。

 最近、元官僚の評論家がやたらテレビに出てわ、官僚批判を繰り返している。官僚から政治家に転身する人も多い。しかし、彼らは多くが高学歴エリートである。経済・外交・教育などの専門家に違いない。その人たちが、元来性悪であるというふうには思いたくないではないか? やっぱり、官僚自体がもともと悪人であるというのではなく、官僚内部の組織の体質と、政官の関係性のねじれの中で、そのようなキャラクターが作り上げられてしまう、のではないか?と思うのである。

 たとえば、一向に改善しない縦割り行政。意思決定の仕組みが、組織の利得や力関係を前提にしているとすれば、どう考えても大衆の必要とする政策は実現されない。なんとなく、若い人たちの間で意見交換を交わすというムードさえも許されていないのではないか、と勘ぐってしまう。
 唐突だが、医師の世界でも、科の垣根を越える診療というのが難しいと感じることがある。自分の領域の病気の検査をして、異常がなければ「ウチの病気ではない」と言って、他に回す。医療なんて万能じゃないんだから、原因がわからないことなんていっぱいある。そういう前提に立ちつつ、どこまで患者のために関わるか(関わるべきでないか、という問題も含まれる)を常に客観的に判断することが必要である。
 そういう中で、総合内科や家庭医診療、総合救急、緩和ケアなど、垣根を越えた1患者をトータルで診ていくという領域が浸透してきて発展してきているという現実は、これまでの組織の在り方では立ちいかないシステムを変えていこうとするものである。
 
 おそらく官僚も、また、政治家と官僚の関係も、その関係性のシステムを変える時が来ているのだと思う。そして内部ではもう変わってきていると期待したい。

 しかし、そこでネックになるのが、例の?東大話法である。安富歩が書いている「東大話法」は、極端な書き方でいろいろと賛否両論であると思うが、多くのエリートが、自己実現の過程で多かれ少なかれ内在しがちな考え方は、やっぱり「柔軟なコミュニケーション」を阻害するものでしかないと思う。ニーチェは、大衆は愚かであり、語りかけても無駄であると悟ったわけだが、そこで思考停止しても仕方がないではないか?

 柔軟なコミュニケーションの中で、ゆるやかにつながりながら、新しいシステムを作っていくこと。一人一人が考えるべきはこれだと思うのだが。

2012年12月17日月曜日

総選挙・雑感

終わってみれば、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という結果だった総選挙。大勝の感想を聞かれた自民党幹部は、こぞって、「自民党が信任を得たわけではなく、民主党がひどすぎた」と優等生な発言を繰り返した。
 安倍総裁も、選挙前の攻戦的で挑発的な発言から一転、慎重に言葉を選んで、まさに「保守」。野党の顔から与党の顔へのダイナミックな変化を1日にして見た。
 
 第三極も離合集散で、今回の投票率の低さは、結局有権者が第三極も信任するまでは至らず、「民主にNo」ということだけがはっきりとした結果として残ったという。しかし、首班指名を誰にするか、で既にもめているような、「言うだけ番長」ツートップも、そのタレント性は絶大で、50議席を越えてもう少しで第二党という結果は、「タレント性より実行力、政策」と言われる日本でも、まだまだタレント性が通用することを皮肉にも示した結果であった。それは、「タレント性が持たせる期待」と同様、「タレント性に対する強固な嫌悪」も表裏一体であり、一方の第三極「未来の党」が、結局は嘉田さんの無害さよりも小沢一郎への嫌悪感によって、脱原発派の声を集約できなかったことからも読み取れる。

 私は執念深い人間なので、小泉郵政選挙ぐらいから、一貫して民主党を支持している。
地元が岡田克也のお膝元であるというのもあるのだが、小泉・安倍・麻生に通じる「生理的嫌悪感」が今も自分の中にひっかかりとしてある。国民が、自民党にNoを突きつけた3年前の衆議院選挙、からの3年間の振り返りが、十分でないように思えてならないのである。
 今回の民意には程遠いので、無視してもらっていいんだけど、3年前の民主党のマニフェストは、小沢-鳩山ラインの作ったものだ。だから、民主党のこの3年を振り返る上で、小沢-鳩山時代と、菅-野田時代は分けて考えなければならない。
 野田佳彦が、財務省の言いなりになって、マニフェストの公約と正反対の消費税増税に踏み切ったことを批判する声も多い。しかし、それは、「3党合意」に基づくものであり、自民党と民主党の差異の根拠にはならない。社会保障に関しては、まだまだ議論が不十分であり、自民が民主に勝っているとは思えない。復興に関する問題は、自民党が民主党よりもスピーディーに遂行できるという保証はない。現時点では、自民と民主の大きな差異と言うのは、「憲法改正と国防、日米安全保障と対中外交」に尽きると思っている。つまり、昔石原某が言っていた「Noと言えるニッポン、強い日本を、取り戻す」である。
 これを日本国民に潜む、潜在的なナショナリズムと考えるのは早計だと思う。私はむしろ、「日本は、国防や外交に関する主体性をこれまで持ち得たことがないのではないか」という、思想としての未熟性を指摘しておきたい。もちろん、戦前のような思想教育をしろと言うわけではない。ただ、平和憲法というものを与えられたことによって、「考えないで済んでいた」というだけじゃないか、と思うのである。

 選挙争点としては、自民党や維新は、うまくこの辺をはぐらかして議席を得た。中韓は、日本の右傾化を一斉に報道するが、欧米や日本国内では、安倍総裁の、過去首相時の、特に対中外交を評価する声も多いので、そこまで懸念はされていないようだ。しかし、ここ数年内に、必ず、「憲法改正の是非を問う」選挙が行われることは間違いないだろう。

 国民は、自分たちの民意に対する振り返りを、きちんとすべきだと思う。何故、3年前に民主党を選んだのか、自民党にNoと言ったのか、よりましな政党はどこなのか。自分の1票で何も変わらない、と嘆くより先に、自分の中で政局を冷静に眺めるということをみんなすべきだ。

 そしてもう少し踏み込んで考えるならば、なぜ「不況なのか」ということじゃないかと思う。この不況は、日本だけじゃなくて世界の問題として捉えるべきだろう。投機マネーや格差が、不況を誘発しているのはあると思うが、もっと根本的には、軍事費の拡大(特にアメリカ)と、豊かさがあるんだと僕は思う。豊かさとは、「もうだいたいの必需品は手に入る。だから新しいものや良いものを作ってもそんなには売れないし儲からない」ということだ。経済の原則は物々交換である。他国にないものを輸出し、自国にないものを輸入する。豊かになれば経済が停滞するのは当たり前である。機械化を進めて人件費をどんどん削っていったら、人はどうやって働いたら良いんだろう??

 民主党はおそらく細野豪志が、代表になるだろう。純化路線が、党としての成熟につながるのか?どこに自民党の差異を作っていけるのか?中道の価値を見出せるか?
 

2012年12月14日金曜日

橋本治 「二十世紀」を読むー1

 混迷の21世紀を迎えて、バブルはとっくに崩壊し、世界的に経済危機が叫ばれる。日本ではモノは作れど売れず、原発の安全神話がもろくも崩れ去り、本当に豊かな国土は失われようとしている。一人勝ちしていた日本のつまづきから近隣諸国は攻勢を強め、日本にネオ右翼が台頭し、改憲や国防軍の議論がさかんになされる。

 「正しい方向性」が見失われた今、毎度繰り返される消化不良な党首討論で、我々は国の未来像を描けない。答えが見つからない中、選挙は3日後に迫っている。今出来ること・・・は「歴史から何を学ぶか?」であると思った。

 以前買ったまま読んでいなかった、橋本治「二十世紀」を読む。
 筆者曰く、「きわめて個人的な」百年記。この著作の議論をまとめるだけでも、もはや時間が足りないが、非常に多くの機知に富んだ視点を与えてくれる。

まずは総論。
 「20世紀」は2つの世界大戦と冷戦の時代である。ここで筆者はまず、外交手段の一つとしていた19世紀的な「ルール・美学のある戦争」と、大国が軍隊を背景にして「経済的侵略=商売」をおこなったことの意味を問う。そして、その経済的侵略の背景にあるのは、貿易の背後に、「必要」とともにある人間の「欲望」であるという。
 19世紀的原則では、貿易戦争での勝者になることは、世界一の侵略者になることであり、世界の覇者は「世界一の金持ち国」であることであった。ここですでに、筆者は結論を出してしまう。。
 「日本の金融システムの危機は、18世紀の産業革命に由来する必然の結果だ」
すなわち、産業革命による機械化により、大量生産の技術が可能となり、人間に作り過ぎという事態を与えた。近代化は、多すぎるゴミの山を生む。資本主義、金儲け競走は、「便利」というものをもたらしてはくれたが、金儲けは更なる金儲けを目指すことにしかならない。投資という行為自体が、商品の大量生産を誘導し、バブルははじけ、投資先がもうなく、「新たにモノを作ることがもう不必要になっていた」。
 高級ブランド品さえも買いあさってしまった日本人は、もはやそのような「いらないもの」さえもいらなくなってしまった。
 
 結論は、「必要なものは作るが、いらないものは作らない」産業革命以前の工場制手工業に戻るべきだ、である。人間から働くことを奪ったらロクなことにならず、働くことしか能がなかった人が働くをうばわれた結果が犯罪の多発である。だから機械化をやめて、効率が悪くても働くべきである。である。

 確かに、不況になるとすぐに「人件費を削減」「公務員の削減」・・・というが、新卒採用も減っているのに、さらに機械化を促進していいのか、と思ってはいた。障がい者の就労、彼らは勤勉だよ。たとえ小さな、決められた単純作業の仕事だけでも、黙々と勤勉にこなすんだ。福祉・医療もそう。農業だってそうだろう。淡々と毎日の仕事をこなすこと、だよな。カンフル剤はもういらないし、新製品ももういらないんだな。「質を保つ」こと、「メンテナンスをしっかりやること」。モノ作りや箱もの作る人は考えて欲しい。

2012年12月11日火曜日

ダ・ヴィンチ 若林正恭×又吉直樹×星野源

 学生時代非モテ系(別名モテキ系、桐島系)男子による鼎談。
ポストバブル世代のリアリスト達が大事にしてきたもの、大事にしているもの、欲との葛藤、身の程、他人への羨望などを語る。

 基本的には、自意識過剰なネガティブシンキング=ひねくれモノ。
 しかし、この3人の中でも微妙にトーンが異なるのが面白い。

 若林は、アメトークの読書芸人の後に、自分のお気に入りの本を送りつけるファンのことを、やや鬱陶しそうに話す。又吉は、「もらった盆栽の本はすでに持っているものだった。」と笑いにする。星野源は、下ネタを放ち、今は昔よりはモテると少し余裕をかます。
 
 読んでる本で言うと、若林が平野啓一郎好きで、最近世界や日本の歴史の教科書?を読み返して、「人はずっと戦争をしている」ことと「偉くなると、足下を掬われる」ことを学んだという話。僕も最近、「世の中の真理に近いことを知るのは、きっと歴史を検証することが一番近道に違いない」という確信があって、あとはその解釈が正しそうな書物がどうなのか、ということに悩んでいるのだが、若林がどういう物を読んでいるのかは興味があったりする。僕は、小熊栄二の「1968」と、橋本治の「20世紀」を読んでいるわけですが・・・

 結局、(日本の)未来をどう考えるかって、過去をどう検証するか、からしか生まれないよ、多分。

2012年12月4日火曜日

私とは何か 平野啓一郎 を読む

 先週末に、新刊「空白を満たしなさい」とともに、購入。
平野啓一郎は、処女作「日蝕」で芥川賞を取った時のインパクトが強い。
当時大学生だった僕は、書店で本を手にして全く読み進められずに終わったことを憶えている。そんな彼が、個人に対して「分人」という概念を提唱し、前述の新作ではモーニングでの連載を行ったということで、改めてチャレンジしてみた。

 小説の感想に関してはいずれまた記したいと思っているが、この200ページ弱の新書も、彼の著作を通して描いてきたことを語りながら、「分人」の誕生と分人主義によるさまざまな考察を進める。

 大震災と原発事故の後、中沢新一の「日本の大転換」の中で一神教の弊害と資本主義、原発神話に関しての考察を目にして以来、西洋的なキリスト教思想が日本においてどのような位置づけになっているのか気になっていた。
 平野は、「個人(indivisual) 」は、明治以後に西洋から輸入された言葉であり、一神教をベーストした西洋文化に独特のものであると述べる。西洋の恋愛観も、それゆえ、お互いを「唯一神」とするような個人を単位としたものである。
 それに対して、自分と他人の関係の中で継続的に、絶えず変化し続ける「分人」の総体が「個」であり、「本当の自分」というものは一つではない、と述べる。これは、全ての自然やモノに神が宿る、多神教的な考え方なんだろうと思う。

「自分か世界か、どちらかを愛する気持ちがあれば、生きていける」
  数ある自分の分人のうち、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。
 そして、その足場となる分人は、生きた人との関係性限らず、詩でも小説でも、音楽でもかまわないという。文化というのは人間に、ポジティブな分人を与え得る装置といえるのではないか?そして、それこそが自分を肯定するための入り口だと言う。

 分人主義的な考え方によって、ネガティブシンキングをポジティブシンキングに変えられるのか?という疑問はある。好きな分人を足場に出来ない人は、何から始めれば良いのか??
 筆者の言葉を自分なりに解釈すると、「自分を愛するために他者の存在が不可欠であるという逆説」を知り、他人と関わりを通して好きな分人が増えるように努めること、となろうか?
 さらに4章で、愛情とは継続性を期待されるものであり、持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のおかげで、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さであると述べる。
 
 分人の考え方は、個人(個性)とは相手を通した自分の総体みたいなものだから、その関係性は常に双方向である。だから、逆に自分が念ずれば、とか、自分がこうすれば、という主体性だけではどうしようもないことが多いと思う。はっきりいって思い込みが強くてコミュニケーションが苦手な人には、結構辛い概念だとも思う。嫉妬・ストーカー・自己卑下・・・
 でも、逆に、このような考え方をベースに「双方向なのだから、相手のことを思いやらないといけない。それは自分に返ってくるものだから」とみんなが思うことができれば、と理想論を語ってみる。。。

最も面白かったのは、死者との分人についての件。訃報の悲しみが遅れてやってくるのは、相手との分人が、関係を必要とする段階で初めて不在を痛感する。大江健三郎の「文章を書くことで死んだ友人を自分の中に取り込んでしまう」ということ。故人について語る資格がある人は、故人との分人が消滅しきれずに、語る言葉の半分が故人のものであるということ。。死んだ後も、人は、他者の分人を通してこの世界に残り続ける、という死生観。これは、とてもよい言葉だと思う。年齢とともに、人間は死者との分人を否応なく抱え込んでゆくのだ。仏壇に語りかけるのは、時々その死者との分人を生きてみること。

SNSの時代、共同体の解体が叫ばれる時代、やたらと絆という言葉が一人歩きする時代。
同世代を生きている作者をこれからもフォローしていこうと思う。






http://www.amazon.co.jp/私とは何か――「個人」から「分人」へ-講談社現代新書-平野-啓一郎/dp/4062881721

2012年12月3日月曜日

地域における発達・在宅支援

日本小児科学会誌11月号 第115回日本小児科学会学術集会教育講演を読む。

小児科学会、全然行ってない・・・

山口県下関市で開業医をやられている金原洋治先生の「どうしたらいい?地域における発達・在宅支援」を読む。

新生児医療から療育の場作り活動を行っている先生が、療育の支援に加え、家族支援を含めた地域生活支援という視点から、「障害児デイケアハウス」「こころの相談室」「重症心身障害児者地域生活支援センター」をクリニック内に作った実体験に基づくもの。

 4階建てのクリニックは、1階が小児科クリニック、2階が「発達支援室ベースキャンプ」とボランティアによる「キッズドリーム」、3、4階に重症心身障害児者地域生活支援センターを併設している。子育て中の女性医師の協力を得て、小児科医2名により、精神科・リハビリ科も標榜して診療を行っていると言う。

 私も以前から、新生児医療の進歩に伴い、地域で療育を必要とする子供達が増えていて、今後ますます、療育や在宅支援の受け皿が必要になるだろうということを頭では理解しているのだが、「それで、実際、何ができるの?」ということを感じていた。特に、こころの問題や心理による療育は、診療報酬の面からも現実的に外来・クリニックでは難しいだろうと言う先入観を持っていた。

 かねはら小児科では、
1)在宅医療支援  
   重症例は救急医療の場の確保が重要なので、多くは総合病院にも受診している。クリニックと総合病院が、在宅療養指導管理料を分担したり、訪問看護・リハの指示書を書いたり、重症児の往診・訪問診療や通所施設への送迎を一部行ったりしているという。

2) 発達相談
 相談外来を予約制(週3回)行っているという。予約待ちが2ヶ月。新患は年間250名。発達障害児(者)に支援室ベースキャンプを利用してもらい、PT/OTは、リハビリ科として保険請求を行っている。臨床心理士は6名の非常勤者がおり、年間のべ2000件!の相談があるという。臨床心理士の人件費確保のために、精神科を標榜して通院在宅精神療法を保険請求している。自立支援医療の申請も積極的に勧めている。

3) 重症心身障害者地域生活支援センターの活動
 
を行っているという。

一般のクリニックで出来る発達支援・地域生活支援として、診療報酬の算定が重要である。
・小児特定疾患カウンセリング料 月2回まで 2年間限定
   気分障害、神経症、ストレス関連障害、身体表厳正障害、心理発達障害(自閉症)、行動・情緒の障害(ADHDなど)
・心身医学療法
  心身症、カウンセリング・行動療法(30分以上)
・通院・在宅精神療法(週1回、精神科標榜)
  統合失調症、躁鬱病、神経症、真因反応、児童思春期精神疾患など

・在宅療養管理指導料
・在宅時医学総合管理料(届け出が必要)

・障害児(者)リハビリテーション料
  1単位20分、1日6単位まで 
  施設基準:
8割以上が対象患者であること、
常勤職員でPT/OT 2名以上または、PT/OT1名+看護士1名または、ST 1名以上
専用施設 45m2 以上 
機械器具(マット、姿勢矯正用鏡、車椅子測定要器具)
   
・往診時 往診料


市町村の療育施設が、発達障害の疑いの子で溢れ返って、十分に機能していない現状で、こうしたクリニックレベルで発達・在宅支援が進んでいくことは歓迎すべきことであると思う。このようなノウハウやネットワークの蓄積・普及によって、より療育のレベルが上がっていくことを期待している。



2012年11月22日木曜日

タクティールケアからの〜 発達障害の療育

 今日、バイト先で、感覚過敏の強い患者さんに「タクティールケア」なるものを教えてもらった。認知神経科学を中心としたシステム神経科学を勉強してきた私にとっては、療育というのは、認知神経科学を土台とした「その先にあるもの」という意識が強かった。
 発達障害の子に対して、適切な薬物治療とリハビリ・療育をバランスよく行うためには、システム神経科学の観点から「発達障害」という曖昧模糊とした雑駁な診断を再分類する必要があると考えていた。

 しかし、今回、患者さんがリハビリの先生に「タクティールケア」を教わって言えで実行してみたら、「この子はこんなにも体が固かったのか?」とお母さんは驚いたというのだ。知覚に対する過敏や鈍麻(いわゆるinputの問題)が主たる病態であるタイプは、その先に不適切な学習と、不快な感覚を回避することによるこだわり、行為の常同性があるため、エアーズが提唱した感覚統合療法が有効である。IPLなどの頭頂葉における感覚統合にその障がいの責任の一端がある可能性があるが、inputの問題に伴って異常なoutput(運動、姿勢など)が産み出され、だからこそ、そこ(異常な身体性)に働きかけることが治療介入的に重要であるというシンプルなことを伝えきれていなかったことを反省した。

 リハビリに主眼をおく医師や療法士は、薬物治療について懐疑的である人も多い。しかし、特に情動過敏のある(これも感覚過敏の一種と言えるのかもしれない)タイプでは、不安が強すぎて療育どころではない、という人をよく見かける。まったく集団に入れない子がいい例だ。こういうタイプには薬物治療は有効であることが多いと思う。BZP系薬剤を少量、ないし、抑肝散などの漢方薬を使用することである。

 せっかくここまで書いてきたので、応用行動分析(Advanced Behavior Analysis:ABA)についても触れておきたい。バラス・スキナーらが精神分析に対抗して提唱したもの。オペラント条件づけを基幹理論としており、不適応な行動を誤った学習の結果として獲得されるものとし、行動を分析する。
A 先行刺激⇒B 行動(レスポンス)→C結果(報酬or 罰)

のしくみで、行動の強化および変化を促すのがD.T,T(discrete trial training)である。

鬱やPTSDの最も効果的な治療とされる認知行動療法(CBT)は、患者の認知(ものの考え方、受け取り方)に働きかけて問題を解決していく、広く行われている方法ですが、ここまでくると範囲が広すぎてわかりません。発達障害も、個々の発達レベルと認知の偏りを考慮に入れて療育を行うべきであり、当然スキルとして知っておかなければ行けないことなんでしょうが、勉強しないと(汗)
  

2012年11月15日木曜日

見据えるべきは、その先だろ

昨日の党首討論は見応えがあったなあ。
 冷静に見ると野田の言ってることは論理矛盾しているんだけど、討論という観点から見ると、安倍は支離滅裂で野田の圧勝だった。
 
 中道とは言うが、TPP反対派、鳩山派などがさらに離党し、民主党は惨敗しながらも純化されていることだろう。
 対照的なのは、小異を捨てて大同を唱える維新・太陽・減税。なにやら、既成勢力に対するということだけで寄せ集められた「第二の民主党」。今度の選挙で数を取ったその後の動きでしょうね。

 日本って、二大政党に向かわないのかなあ。リトルピープルが、リトルピープル同士、流動的に結合しながらじゃないと前に進んでいかない、そういうことなんだろうかな?

 結局、キャスティングボードを握るのはいつも公明党って感じ。ああいう支持基盤がしっかりしている中規模政党がいくつかできる、というのが一番安定しているんだろうな?過半数という権力闘争をあきらめさえすれば、本当に必要なことが決められるのではないかなあ。

 
 今回の野田の信念の行動が示したものは、目先の利益ではなく、見据えるべきはその先だろ、ってこと。TPP、社会保障、そして安全保障・歴史認識。民主党ではなく野田(派)の姿勢。

 一方で、相変わらず行動の軽さが目立つ安倍が、facebookで誰に何を語りかけているのか、大事なのはフォロワーではなく、無党派層に「その人間性」をどう評価されるのか、それに尽きると思う。石破ではなく安倍を選んだ自民党。鳩山・菅と来て野田に行き着いた民主党。これからが楽しみだ。
 

2012年11月12日月曜日

日曜ゴールデン何やってるんだテレビ

 漫才師、お笑い芸人の「超大物」が出なくなり、百花繚乱、とにかく数で勝負の時代となって久しい。テレビで届けるお笑いは「お笑い芸人に面白いことをさせる」チャレンジ系、「お笑い芸人のこんな一面を見せる」文化系(アメトーク、世界は言葉で出来ているなど)、たくさんのネタを見せるてんこもり系(レッドカーペットなど)、など、とにかく企画の斬新さとボリュームがたよりだった。

 たけしと石橋がMCを務める「日曜ゴールデン何やってんだテレビ」を初めて見た。
ネットでは、「初回視聴率8%」と早くも企画倒れをネタにした記事を見つけて、失敗させたい感ありありなんだけど、これが面白い。

 たけしとTBSというと、安住と組んだ情報7daysニュースキャスターがあるので、なんか空気感は似ている。しかし、3組のお笑い芸人コンビが、俳優のゲストを迎えて新作コントを作るという企画が秀逸である。
 今日は、ザブングル、サンドウィッチマン、バイきんぐの3組。そして俳優ゲストに大杉漣! 取調室のコントに大杉漣を入れるという枠のみ決まっていて、あとは自由。
 サンドウィッチマンの、「警部の取り調べの前説」として大杉漣を登場させ、お笑いを目指していたが突っ込みどころも姿勢も間違っていて、ユーキャンで資格とって、「取り調べにも笑いを」ということで採用されたというシチュエーションも秀逸で、その漣さんに対して伊達がバシバシツッコミを入れていくうちに、漣さんがどんどんアドリブを連発して、最後には富澤も素で大爆笑する件は、たけしをして「博品館劇場で1ヶ月興行できる」といわせるほどの素晴らしいコントだった。

 笑いはすっかり多様化し、江戸浅草の落語・漫才と吉本関西のボケ・ツッコミに留まらず、常に新しいものを取り入れ、増殖している。しかし、コントを作り、演じる時に、「演じる」ことを生業としている「俳優」を入れることで、これほどコント自体が一人歩きしていく、という現実がとても新鮮であった。

 お笑い芸人が役者をやったり、映画監督をやったりすることが当たり前になってきた昨今、こうした笑いに対するセンスや嗅覚を活かして、よりクリエイティブなものを作っていくということ、そしてそれを大衆のメディアで行うことは、閉塞感漂う今のお笑いの在り方に一石を投じるものではないかと思うのだ。

 ついに、映画人北野武+芸人ビートたけしが、ドッキングして本気のお笑いを作り始めたと思った。でも、石橋の立ち位置は、微妙すぎるのだが・・・なぜ、ダンカンじゃダメなんだろうか??


2012年11月11日日曜日

本の未来、エンターテイメントについて

朝日新聞出版 「橋本治という立ち止まり方」を読む。

サブタイトルは「立ち止まれ、ニッポン」。
もうこれだけで、読む価値あるでしょう。

エッセイなんだけどあまりにも含蓄が深いので、これからしばらくは、この本から考えさせられたことを、ただ書いていこうと思う。

その1 なぜ本を読むのか?

 筆者は、特に若い時に、「本を読んで居ても立ってもいられなくなった」経験を通し、本というものは「人を動かすものでありながら、簡単にこっちへ行けばよいと言う答を与えてくれないもの」であるという。人は、刺激を受けたらなんらかの反応をするもので、だから今の人は、自分の受けた刺激に対して、「ブログで語る」ことをする。
 でも、今の日本の社会では、「やるべきことを与えられている人」はとても忙しく、「やるべきことを与えられていない人」は、「なにをするのも自由なのに、なにもすることがない」という「つらい状況」にある。

 学生時代のモラトリアムに本を読め、というのは、本当に良く言われることで、その実、「どんな本を読めば良いのかわからない」ということがあって、一般的に名著と言われるものが、「今の自分には響かない」という経験から、「自分は本が読めない、本を読むことに向いていない人間ではないのか?」と僕は思っていた。仕事を初めて、それこそ、若造なのに、いっちょまえの仕事を与えられ、それなりにがんばって、その間は疲れて「本を読む暇もない」状態だった。本を読もうとすることは努力と体力が必要な行為だ。勉強も。
 大学院に入って、研究という大義名分はあるにせよ、これほどまで本を読むことが出来ることは幸せだと思う。そして、ご多分に漏れず、自分も安易に「ブログで語る」というリアクションをしている。もしかしたら、今の自分は「やるべきことを与えられない、つまらない存在」なのかもしれないなあ、と自虐的になりつつも、「本を読んで考えること」の重要性を体感して伝えていけたらと、真面目に思ってみたりもする。

その2 エンターテイメントの時代

 本が売れない出版不況。その最たるものは、「情報雑誌」がインターネットに取って代わられていることだと言う。一家に全集とテレビが揃い、基本教養は各家庭に揃った。あとは、専門的な志向を深める一部を除けば、安心してエンターテインメントに没入すれば良い。そんなエンターテインメントの時代の代表である雑誌は、文章からヴィジュアルへと軸足を移した。ドラマでは、ミステリーと愛・官能、そして、今やそれさえも「ネタ切れ」になってしまっていると。「普通の人には、それ以外にドラマがないのかな?」という筆者の疑問に対し、筆者はこのように答える。
 「エンターテインメントが肯定され、全開の時代が訪れると、もう人の根本はOKで、その在り方は保証され、人が生きていくための知性の総量はキープされているため、本来は生き方に密接しているはずのドラマは枯渇してしまう・・・」

 人は豊かさを求め、豊かさを手に入れる。モチベーションの原動力となる「欲望」は、新たな欲望にupdateされ続ける。国の借金とエネルギー枯渇という代償と引き換えに。
落語に人間の業の肯定を見出した談志は、ディキシーランドジャズの「ザッツ・ア・プレンティ」を愛した。「豊かだが、幸せでない」という思考回路を覆すものが、本や映画や音楽に内在している。もちろん、良質のエンターテインメントにも。。


2012年11月2日金曜日

野田め、かんたーびれ

民主党政権が末期を迎えている。
 衆参のねじれに加え、離党の嵐が止まらず、過半数割れ寸前。保守色を強める安部総裁は対決色を強め、石原某やら橋本某やらも第三極というなんだかよくわからない括られ方で周りが騒がしい。
 「解散、解散!」の大合唱だけが合い言葉になってて、政治家のイライラが国民にも伝播している印象もあるが、さて、解散したら誰を、何を基準に支持すれば良いのだと聞かれたら明確に答えられる人がどれほどいるのだろう?

 「人は、誰かを推すために生きている」とAKB48白熱論争は言うが、推したい誰かはどこにいるの??と思いたくもなる。まあ、AKBヲタは、握手会や劇場に通い、それなりに努力を怠っていないのかもしれないから、せめて自分も街頭演説や国会中継を見ることをやってからグダグダ言えと言われそうではあるが。。

 政情が不安定なときは、声が大きい人、決断力がある人、演説のうまい人、なんとなく魅力的に見える(モテる)人が支持を集めたりするんでしょうけど、振り返ってみると「どじょうのように泥臭く泥臭く」と所信表明していた野田佳彦という人は、これだけの大合唱にしぶとくしぶとく、政権を粘っている。前原みたいな、脇の甘い閣僚の身内の不祥事にも「のらりくらり」。一億総神経症時代において、この「鈍感力」は結構武器なのでは、今さらながら最近思うのである。
 
 第三極が選挙を見据えて連携すれば、元祖寄せ集め政党であった民主党の二の舞ではなんて声も出ているが、その民主党から元祖仕掛人の小沢一郎を追い出し、消費税増税法案を通したところは、一応の評価をすべきだろうと思う。外交、防衛では素人政権丸出しにしてるのがイタいけれど、国民があのときに選んだ政権を、「消費」するだけではなく、見届け、評価し、検証することを怠らずに、次の選挙に臨まなければならないと思う。



2012年10月31日水曜日

希望の国@ 新宿ピカデリー

 園子温がついに、フィクションとして原発を撮ったということで、公開前から話題だった上記作品。台湾やイギリスからも出資があり、園の実力がいかに世界で認められているのかが窺えるが、それでも東京ではヒューマントラスト有楽町、MOVIX亀有、ピカデリー新宿の3館のみの上映。しかも、平日18時の回なのに、ヒミズと比べると圧倒的に客の入りが少ない。いくら原発後の世界を描こうとも、やっぱりマンガ原作のほうが話題なのか、と複雑な気持ちになる。

 以下、ネタバレ。
 
 まあ、これをフィクションで撮ることにいろいろな意見はあると思うが、とにかく観終わった後の強度。園お得意のバイオレンスは今回は全く抑えられており、その意味では真に社会派の映画を撮りきったと言える。
 NHKでのドキュメンタリーでは、妻の神楽坂恵とともに、完成した映画を南相馬の被災者に届けた。この正面からの態度に彼の自信と誠意がうかがえる。

 世代の違う3組のカップルを軸に物語は進んでいく。大谷直子演じる認知症の妻が、「もうかえろうよ〜」と繰り返しつぶやく。帰る場所を失った荒野の子供たちが、同じく家族と故郷を津波で失ったヨーコに対して、「一歩、二歩、三歩じゃないよ。これからは、一歩、一歩、一歩だよ」と諭す。この、同じ言葉を繰り返す手法は、ヒミズの「住田がんばれ、住田がんばれ」でも出てきた叫びであるが、今回は、そのスピードがずいぶんと違う。若者の生への衝動さえも飲み込んでしまう津波と、あまりにも長い時間に渡って、見えない敵との戦争を余儀なくされる原発。20km 圏内に容赦なく打たれる杭にとどまらず、夏八木勲と村上淳の親子の中に打たれる見えない杭で分けられた壁。

 放射能という「長期にわたって蓄積する性質を持つもの」が、人間の在り方に及ぼす影響は計り知れない。酪農家としてこれまで生きて、守ってきた土地と動物・植物を失った者の還る場所は、この世にはない。これから生まれ来る命を宿した者の帰る場所は、「変える場所」である。土地やら故郷やらというものは、本来の自然の時間の中では、「還る=連鎖」することが普通であるのに、そういう前提を失ってなお、人は「復興」という名の下に故郷に「還る」ことができるのか?

 廃墟と化した避難区域で、盆踊りの音に誘われて、行き場を失ったペットや家畜の中を駆け出す智恵子のシーンが素晴らしい。認知症の人が時に見せる、無邪気なまでなピュアさは、まさに幼心に帰っている。
 放射能恐怖症になって周囲から揶揄される神楽坂恵が、強迫的な面とは裏腹に、避難勧告を無視、故郷に留まり続ける義理の両親を愛し、尊敬しているがために、防護服を着たまま会いにいくアンビバレントな感情も素晴らしい。突出した行動で「異常」と判断してしまいがちな、「自分でモノを考えもせずに、自分は正常と思い込んでいる大衆」と、関係性がいつしか反転して映る。ただ純粋に、夫を、我が子を、故郷に留まり続ける(義理の)両親を愛しているのだ。
 情報から得た知識や理性ではなく、内なる愛情や情動に突き動かされる行動にこそ希望が宿るのだ、ということを映画全体で体現しているような作品だと思う。やはり、園は詩人なのだ。



2012年10月17日水曜日

慈しみ

 昨日のくるり電波で、読者のお悩み相談で、岸田が「恋は病気みたいなもんだから、恋してない状態は健康なわけで、健康だからこそ打ち込めるものを探したらどうでしょう?」と言っていた。
 恋は急性の変化だけど、愛や家族は、ゆっくり時間をかけて育んでいくもの、みたいなことを言ってた。

 最近よく、彼は「慈しみ」という言葉を使う。
慈しむを辞書で引くと
1.  愛情を持って大切に扱う 

関連語は「愛でる」
英語では to love

語源は、平安時代の「うつくしむ」が「いつ(斎)く」への連想の結果、語形が変化し中世末頃生じたとされる。

慈悲について
 サンスクリット語のmaitri (マイトリー)から。 
 他の生命に対する自他怨親のない平等な気持ちを持つこと。
 一般的な日本語では、「あわれみ、憐憫」(mercy)の気持ちを表現。

 本来は、慈=いつくしみ(相手の幸福を望む心)
     悲=あわれみ(苦しみを除いてあげたいと思う心)

 仏教における慈しみは、ミトラ=友情・友人の意味で、あらゆる人々への平等な友情を指す。キリスト教では、人々への憐憫の想いを表す。仏教では、一切の生命は平等であるとしている。
 
 慈悲についての思想(宗教)的定義は、まだまだ奥が深そうだ。

このページが面白そう。 後で読う。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto09.htm

あさイチ 出生前診断

 今朝、研究室に行く前に準備してテレビを見ていたら、夏菜のハイテンションの後に、
あさイチで、「出生前診断」の話題をやっていた。
 NHKスペシャルで何度かやっているから、NHKでこのテーマ自体は別に驚かないけど、こんな、奥様方が子供を送り出して見るお気楽時間帯に、こんな重いテーマで。
 室井佑月や内藤剛志が顔をしかめて、能天気イノッチまでも、「カウンセリングの体制をしっかりしないと」とやたら真面目なコメント。

 途中、第一子がDown症の両親が、二人めを授かった時の「出生前診断をするかしないかの葛藤」を語る件が、とても良かった。
 奥さんは、「旦那さんにさらに育児に負担をかけることを考えて、検査しようか迷ったが、検査した後に堕胎することは、上の子を否定することになるから、自分としては検査をすることが考えられなかった」という。旦那さんも同じ気持ちで、結局は検査せず、健常な第2子を授かり、その後9年になる。「知識がないまま、精神的なケアの体制が不十分なまま、検査を簡便に受けることばかりができるようになる世の中で、自分たちの経験を少しでも伝えることが出来れば」と取材に応じたと言う。

 それに対する視聴者からのFAX 「検査を受けなかった人の美談ばかりを強調してはいけない。実際に障がい児を持つことで育てていけないケースも五万とある」とすかさず有働アナが釘を刺す。

 印象的なのは、医者が患者に言う、「選択はあなたの自由です」ということば。僕は、産科遺伝カウンセラーの資格もないし、取る気もないので敢えて言うが、検査を受けることが自由なだけであり、選択は義務なのだ。つまり、検査を受ける権利が、選択をする義務を産むというだけのことだ。だから、その義務を負わされたくない人は、権利を主張しなければ良い。極端に言えば、子供を作るのも権利であって、産んだからには育てる義務があるのだ。権利と義務ってそういう関係でしょう。

 新しい技術が生まれて、進歩すれば、また新しい問題が生まれる。当たり前のこと。
ただ、その新しい技術は、多くが、効率と経済を重視して優生的な思想でなされているのだろうな、とは感じるが。脳死移植、iPS, 尊厳死・・・。

 僕は、人間が人間の生死にとやかく言う権利はないと思っているので、何週までなら人工中絶可能などという恣意的な基準は、人間が決めるものではないと思ってさえいる。
 しかし、それでも現実的に早産や染色体異常によって望まれない障がいを持って産まれる子と、苦労して育てなければいけない宿命を背負った家族に対しては、精一杯医者として接しようと思う。それが、医者になる権利を持って、小児科に進む権利を持って、障害のある子と接する権利を持った小児神経科医としての自分の義務だと思っている。

 番組に慶応の産科の教授が出ていたが、カウンセリングをしっかり受けない限りは、検査を進めないほうが良いと言っていた。迷う人には、現実を見せることも一つ。迷うことさえないという思い込みの強い人には、何も言うまい。それがユーザーニーズというやつか?


 


2012年10月15日月曜日

メンヘラその2

最近のお気に入り。
舞城王太郎からの〜 本谷有希子。
阿修羅ガールの誰かの感想を読んでて、本谷有希子の「生きてるだけで、愛」に行き着いて、富嶽百景の表紙に惹かれて読んでみたら、完璧にメンヘラ女子の話だった。

角田光代をはじめとする自意識過剰系女流作家の文章は、かつて生理的嫌悪感を感じて、食わず嫌いになっていたんだが、この「生きてるだけで、愛」の屋上でのクライマックスの画が、とても素晴らしかったので、やっぱり演劇畑の人の文章は、ただの物書きに比べて動的で力があるな(リビドーとでも言うのか?)、と感心していた。

ひょんなことから本谷有希子をフォローし始めて、「腑抜けども」なんかも映画でも本でも読んでないので、吉田大八だし見ないとなあ、なんて思いながら、紀伊国屋新宿のDVDアイランドに行ったら、なんと「舞台DVDコーナー」があるじゃない??話題の長澤まさみ×リリーフランキーのクレイジーハニーも本谷作なんだ、と思いながら、見つけてしまった!

今、6年ぶりに再演している「遭難」。
劇団、本谷有希子の看板、吉本菜穂子はもとより、なんとつぐみ!

翌年に芸能界から姿を消すので、そろそろメンヘラ系に入った頃かもしれないが、いい芝居だよ、これ。

これまで、舞台は短期公演でなかなか予約も取れず、行く機会がなかったが、まずはDVDで入門だなあ。こりゃ。

(続く)

2012年10月14日日曜日

桐島、部活辞めるってよ

 中森明夫のtwitterを読むまで、全くこのタイトルに興味が沸かなかった。そりゃそうでしょう、夏休みにこのタイトルの映画やられても、「Rookies」とかの中高生向け青春路線映画だと思ってしまうわ。

 ただ、一つ失念していたのは、吉田大八が脚本・監督であったということ。
 パーマネント野ばらの、ただならぬ世界観の次回作という意味で注目しとくべきであったか??

 朝井リョウの原作も後追いで読んだのだが、割と大胆に原作を改編している。
岩井俊二やジョゼ好きの映画部副部長を、ゾンビ屋に仕立てたあたりは心憎い。
 実は、後付けになるが、自分のキャラは100%、この映画部副部長のキャラに被っているのだ。きょうのできごと、ジョゼ、池脇千鶴、週刊真木よう子、岩井俊二・・・
モテキに次ぐ、文化系陰性男子思い出ひたる系。

 スクールカーストと呼ばれるヒエラルキーは、気がついたらできているもの。中高におけるヒエラルキーは、田舎の場合、まず何となく「自由に校内恋愛できる」をキーワードとして出来ている気がする。体育会系男子とリア充女子、の組み合わせが多いと思うが、それに加えて、この映画では出てこないが、「(ビジュアル)バンド系」もあるだろう。

 物語終盤の、菊池と前田の8mm越しの邂逅。救世主を求めるものと、救世主を待ちわびていないもの。前田は、あくまでも現前とする菊池を「やっぱりカッコいいね」と無邪気に言う。僕は、副部長のひねくれさに対して、部長の前田のこの素直な眼差しこそ、重要なポイントだと思う。好きな女の子に対し、マニアックな話をわずかな(映画好きという)接点を頼りにかましてしまうイタさは、カーストの下である限りは「イタい」のだが、高校を卒業し、カーストから解放される暁には、強みになる可能性があるのだ。
 しかし、決して背伸びはせず、現実的に「映画監督は無理だと思う」という、下ならではのあきらめ。未来は無限に広がってなんかいない。この素直さと締念の狭間にこそ、持続可能性があるのではないか、と思う。

 果たして、器用貧乏の菊池は、きっと、ソツなくこなし、ソツなく就職し、ソツなく結婚するだろう。きっと、高校の時のこの邂逅が、彼を平凡なインテリとは違う道を提示してくれるのかもしれないと信じたいが。。

 中森明夫の言う、「もはや現代演劇では、青春映画は成立し得ない」という「リトルピープル」の時代に、それでも私は、年甲斐もなく、高橋優の「陽はまた昇る」をシャウトしてしまうのである。熱さって大事なんじゃないかなあ??

 

2012年10月13日土曜日

メンヘラとSNS

今日も日々繰り返される、イイネ!の嵐。
以前このブログでも、2ch以外にネガティブを許容するSNSが必要では、と提言(?) したが、どうにもFacebookで承認欲求がダダ漏れてる書き込みを目にすることが増えた。

一言で言えば、「頑張ってる私」。この手の書き込みには、まず間違いなくイイネ!ボタンを押せなくなる私。お決まりの「鬱を励ますのは禁忌」を忠実に守っているからなのだが、ここで気になるのが、

SNSをやってるうちに、承認欲求が肥大化して病むのか、
もともと承認欲求が強いタイプの人間が、このようなSNSを利用するのか、

ということ。

僕の意見をはっきり言うと、抑うつの人は、気分が立ち上がっても、もうFacebookには手を出さないほうがいい。
 なぜなら、このツールを使った承認願望は、満たされることなく病んでしまったわけだから、一時的な気分の解放にしかならず、なにか根本的に他人とのコミュニケーションの方法を変えないと解決しないと思うから。

 家でパソコンの電源入れて、ページにアクセスして、イイネ!を押すだけの承認なんて、何ら努力のいらないものだ。手軽さの極致。リアルコミュニケーションの入り口としてのツール以上のものを求めてはダメだと思う。苦しければ、会って苦しみを分かち合う。一人でもいいから、苦しい自分を承認してもらう。そして、結局は孤独に耐える訓練を経験として積み重ねていく。

 メンヘラのSNSへの実名書き込みなんて、痛々しくて見てられません。

2012年10月7日日曜日

とんび 前編

再放送で初めて視聴。

ベタな重松ワールドだが、ストレート過ぎて共感できなくても、泣かせる。
小泉今日子が演じる居酒屋の女将は、その年輪が彼女の芸歴の変遷とも合わさって、素晴らしいの一言。小泉今日子×古田新太とか、最高だね。

2012年10月3日水曜日

京都・美意識 

今日も、「一冊の本」より。

成人式で、大岡越前の悪代官が着ている様な袴を若者が羽織るようになり、ゴスロリのような毒々しい「赤」が着物に使われるようになったころから、「地方発ヤンキー文化」は全国に広がり、席巻するようになった。

もともとの日本人の美意識は京都発のものであり、刻々と姿形を変える自然の美をテーマに、補色を幾重にも使った独特の染色技術が「伝統」として受け継がれてきていた。

それは、華道、茶道はもちろん、にしんそばにまでみられる「引き算の美意識」に他ならない。
 http://www.shimadadesign.com/?p=1024

ヤンキー文化は、地方発のファミレスみたいな広がり。
ブランド文化も、その延長でしかない。
ステータスと美は、もともと相性が良くない。

京風おでん、にしんそば、湯葉、出し巻き卵、鱧、鯛。
京都、惹かれます。本気で移住しようかなあ。

2012年9月25日火曜日

のぞみ1号と園子温


今日も、坩堝の電圧の話題。
音楽の坩堝のアルバムからは、いろいろな音が聞こえてくるのだけれど、沈丁花からあとの3曲には、岸田の想いが爆発していると思う。

のぞみ1号の最後
 
走れ、走れ、走れ。

のフレーズ。

幾度となく聞いているうちに、浮かぶ情景が、園子温のヒミズのラストシーンにシンクロした。
二階堂ふみの 「住田走れ、住田走れ」のシーン。

津波で荒廃した海沿いの道をどこまでも疾走する。
退廃の中に生まれた「生の衝動」。

音楽から映像がインスパイアされる経験をあまりしたことがなかっただけに、ちょっとびっくりしたけれど、この2人のクリエイターが、ポスト3.11 の世界と真摯に向かい合い、作品を生み出し続けている事と、それをリアルタイムに共有できていることをありがたいと思う。

2012年9月23日日曜日

京都にて


充実の京都2日間からの帰りの新幹線の中で書いている。今年の音博は2年ぶり、3回目の参戦となったのだが、 年々参加者が増えてきていて、今年は細野晴臣によると12000人とのこと。曰く、「こっちが3人で、そっちが12000人なんて、勝てるわけないよね。」

今年初めての試みとなった、ひとりジャンボリーにはアジアンカンフージェネレーションの後藤正文、andimoriの小山田壮平、ストレイテナーの
ホリエアツシなどくるりと同世代のアーティストが揃い、例年よりフェス色が強かった。ヒトリジャンボリーの中でも、ボボやファンファン、岸田が他のアーティストとセッションをこなしていて、よりくるり色が前面に出た格好だ。

それでも、やっぱりくるりのセッションは1曲目の「everyday feels the same 」から、いきなりファンとの一体感が生まれ、chili pepper japonesで一気に疾走する。惑星づくりでは、省念のチェロが圧巻。その後も、crab, reactor, futuresoma, のぞみ1号と新曲ラッシュで一気にハイライトへ。
のぞみはやっぱり名曲だと再確認。

そのテンションのまま、烏丸四条あたりで夜の食事どころを探していたのだが、どこも満員でなかなか入れず。たまたま見つけた路地の店が、非常によかった。おばんざいの盛り合わせは、ひじき、ポテサラ、おからなど、薄味の味付けでちょこっとづつ。くどすぎず、薄すぎないごま豆腐は絶品。
その後、鱧の炭焼きをわさびだけでいただく。丹後牛の炭火焼、金沢の遊歩をいただき、締めはさんまの蒲焼き入りのカレー。
途中、Ents (ストレイテナー)のTシャツを着た、星野源に似た男子おひとりさまとカウンターでちょこっと話をしいい感じで帰宅、

本日は、錦市場、清水寺、建仁寺など。

岸田と後藤は、今回の音博で不仲説を一蹴するセッションを行ったが、年も見た目も似ていて、音楽の方向性もやっぱり似ている。斜に構えた感じも似ている。しかし、昨日居酒屋でご一緒した星野源風男子曰く、「くるりファンとアジカンファンは被らない気がします」。彼は、中学校の時に音楽を聴き始めたのがくるりの「東京」だったそうで、君はなんとセンスが良いのだと思ったのだが、そんな彼のお気に入りは「魂のゆくえ」の「ベベブ」と「背骨」だそうで、やっぱりアジカンとくるりはずいぶん方向性が違い、ファンも違うんじゃないか、と改めて思ったりした。

今日、京都を歩いていて思ったんだが、岸田のあの繊細な感性は、京都の土壌が生んだ、もしくは京都の両親のDNAが熟成されて生まれたんじゃないか、と。京都 vs 横浜。

反原発の歌も、ストレートに表現する後藤に対して、岸田はあくまで感情を抑えて、シニカルにシニカルにボブディラン調。

京都には唐辛子の店と、ちりめん山椒の店が多いのにびっくり。「chili pepper japones」も京都だからこそ生まれた曲だ。
京風って「京風ラーメン」に代表される、薄口、薄味の代名詞として伝えられる事が多いが、そんな京都に、「梅干し」「ちりめん山椒」「漬け物」「唐辛子」の香辛料文化が繁栄したのは、「デフォルトが薄味」だからこそじゃないのか、と思わされる。

はんなり、をかし、もののあはれ。日本文化の原点は、やっぱりここではないか、と。
「ヒトリジャンボリー、しっぽり代表の岸田です。」
グレーテルのかまど、でやっていた、薄味のフルーツ。いちじく、あけび。

川床でいただいた、「京料理点心」1800円。
鴨、卵豆腐、お刺身は鯛、冬瓜の風呂吹き、かぼちゃ、サンマの蒲焼き、生麩田楽、酢レンコン、万願寺唐辛子。

2012年9月21日金曜日

くるり 坩堝の電圧 とりとめもない感想

「魂のゆくえ」ぐらいから、ネガティブな発言が続いて音楽も内向的になっていった印象のくるりが、B面ベストで一度彼らの歴史を顧みて、「言葉にならない笑顔を見せてくれよ」では、「温泉」や「目玉のオヤジ」で日常の些細な一コマの素晴らしさをさらりと仕上げた。

 その後、震災とメンバーの加入・脱退を経てたどり着いた本作。
 「Dog」や「o.A.o」のような、前作からの流れを汲んだ日常的なサラッとした清涼感のある曲もあるが、世間でも言われているように初期のくるりに戻ったようなバンド感満載のサウンドと熱さが特徴なのは一回聴けば明らかなのだが、やっぱり、その熱さの根底にあるのは反原発を基軸とした痛烈な政治や社会への批判と皮肉に満ちた「熱い想い」に違いない。岸田を原点回帰にもたらしたものが、皮肉にも大震災という「初めて人の不幸を自分のことのように感じた」経験が、そしてその後の世界の変化への違和が熱さにさらに火をつけたのであろう。

 とはいえ、そこは、ちょけでひねくれ者の岸田である。ストレートに「進め、進め、走れ、走れ」と表現はするが、2chで揶揄されているような、長渕剛とは180°違う。

 とにかくサウンドのバラエティーが豊富であること。19曲あって中だるみしないというのも凄いが、このアルバムには至る所に「曲同士のつながり」を見て取ることができる。plutoがcrab, reactor,futureの高速逆回転を利用して作られた実験的なサウンドで、その直後にボブ・ディランのような風刺曲が響くのも爽快だ。argentinaの後に続くfallingも、サウンドがそのままつながって行くように感じられる。
 そして、somaと沈丁花に至っては、ジャケットがsoma沈丁花と青と赤なのだが、この2曲は3.11後の、近過去と未来を唄った表裏一体の曲だ。「息子」は生まれた時には砂漠の中にいて、咲くこともできなかった沈丁花だが、「あてにせず、あせらず、あきらめず」「進み 走り 泳ぎ もがき」 「どこまでも続くこの道を 浜のほうへ 行くんだよ 産まれた場所へ いざなおう」と続く。これが岸田の願う相馬の未来そのものではないか? taurusやdogのような日常も、生きている限り続いて行く。時速300kmで走ることのできない僕たちは、それでも、文明の象徴たる「のぞみ1号」に励まされて、「生かされている限りは立ちはだからなければならない」

 3.11後に京都に引っ越した岸田は、「papyrus」のインタビューで、「ずっと前から東京は住みにくく、飽和していて、がんばらないと生きていてはいけないような感じがしていた」と語る。
しかし、京都に移った今でさえも、自分がどこに所属しているのかがわからないと言う。
当たり前に実家はあり、当たり前に毎日家に帰る。大震災で家ごと失った人の帰属感の喪失とは、どのようなものであるのか?
 東京に住み始めて17年たつ僕も、ここ数年彼が述べていた思いと同じような気持ちになることが多い。僕は東京で仕事をしているので、当たり前に毎日を過ごしているのだが、自分の身の丈にあった仕事ができる環境は東京ではないのではないかと思うこともある。

 「glory days」 は、彼自身がくるりの過去と現在の思い出を交差させながら、このように締める。

“ときおり 思い出せよ 無くなってしまった過去も
誰より知りたいはずの 未来も”

人は、たぶん年を取れば取るほど、思い出に強く影響される生き物だと思う。
思い出があるから、今の自分があるのだし、もしかしたら、「帰属感」というのは、ありきたりな言葉だと「ふるさと」だし、「母校」だし、「安心な僕らの旅」だし、「君が素敵だったこと」だし、「裸足のままで行く、何も見えなくなる」ことなのかもしれない。

でも、たぶん「今のくるり」が伝えてくれることは「everybody feels the same」なんじゃないかな?世界を越えて音楽は人の心に通じる。そして、everybodyは、クマバチも牡牛も、犬も、チャイナドレスも、アルゼンチンの電車も 。

そして、何より、somaで唄われる、どこまでも青い空の「未来」を想像し、ときどきは、「そんな未来を思い出せよ=(希望を持って)思い描けよ」と言ってくれているのだと思った。

過去と未来は一方通行の時間軸ではなくて、このアルバムが示すように行き来しながら一つの作品(人生)となる。その作品を形作るものは、植物や生き物や、使い古された電車や、挫折感に満ちたシューズや、喝を与えてくれる香辛料など、まさに「坩堝」だ。
 僕たちの未来は、きっとそんな坩堝の電圧が持つエネルギーにより規定されるのだろう。そんな強度を持ったアルバムだな。

明日は京都音楽博覧会。

2012年9月20日木曜日

くるり 坩堝の電圧

完全限定版をなんとか購入。
音楽の楽しさと豊かさを味わわせてくれる、確かに噂に違わぬ最高傑作。

冬のライブで聴いた「のぞみ1号、」が素晴らしい。

2012年9月18日火曜日

石破茂×宇野常寛 こんな日本をつくりたい


政治家と評論家の対談集。
こういう時期に特定の政治家の思想ばかりを読むのはどうかなあ、と思いつつも、宇野常寛の熱い前書きに触発されて購入。

国民主権の意味と、自助・共助・公助の原則。とっくに賞味期限の切れたOSさえ変えられない日本の体質。宇野の切れ味鋭い問題意識に対し、迎合するだけでなく是と否をきちんと語る石破氏。

石破の発言で、「一つ言えるのは、人は自分に余裕がないと決して人に対して優しくなれない、ということです。環境が整わないと、利他性というのは生まれない」というところは、まさにその通りと思った。
「共助」の精神を原則とするためには、特に支える側に余裕がないと。
 金銭的、人的、システム的余裕。社会保障と雇用、保育園などの現物給付は、そのためにも最優先されるべき政治的課題だ。

 政治家の発言は二枚舌を前提にして、またメディアのフィルタを通してメディアの意図を読み取りながら吟味して行く必要はあるが、現時点でここまで自らの意見を語りきれる石破氏の今後の動向には注目して行きたい。

2012年9月16日日曜日

英語にできない日本語

サンデーモーニング。

日本に古来からあった「いなし」の思想。

英語に翻訳できない言葉って大事にしたい。
いとをかし、も同じ。

力と力の戦いは、破壊しか生まない。

「いなし」(往なし、去なし) weblioでは、handle  cleverly
うーん、やっぱり違う気がするなあ。

2012年9月8日土曜日

アーティスト & ニューシネマパラダイス@早稲田松竹 

夕方18:30からの二本立て。アカデミー作品賞のアーティスト目当てだが、密かにスクリーンで初めて見るニューシネマパラダイスも楽しみに。

まずは、ニューシネパラ。
この映画の舞台がイタリアのシチリアで、敗戦国イタリアの戦後復興に併せて、教会で市民の憩いと、唯一の娯楽として人気を博して行く時代背景は、なんかあまり記憶になかったから再発見。駅馬車やカサブランカなどの名作をちりばめながら、アルフレードに名台詞を語らせて人生の立ち行かなさや困難さを、さりげなく示しつつ、まさに全編映画に対する壮大なオマージュになっている。
 ローマに出て成功したサルバトーレが、アルフレードの死の知らせを聞いてベッドで、街を出て行くまでの回想の後に、シチリアに戻ったあとの余韻に満ちた描写は、廃墟となったニューシネマパラダイスと、そこに染み付いた追憶から、見る者にもサルバトーレ同様にこみあげる感情を喚起する。

 この最後の15分のシーンは、ほとんど言葉がない。亡きアルフレードがサルバトーレに遺した「素晴らしいキスシーン」は言うまでもなく、時を経た主人公や母、神父などの役者の表情は、本当に素晴らしいと思う。結論から言うと、ニューシネマパラダイスは、まさにサイレント映画の要素を取り込んでいて、アーティスト以上にサイレントなのである。それでも、この二本立てのペアをセレクトしたスタッフは凄いと思う。
(P.S オリジナル完全版は劇場版より50分以上長いのだが、私はこの劇場版の方が断然好きである。)

 
 で、アーティスト。
 これは、サイレント映画と呼ぶには語弊がある。無声映画のスターの凋落と再生をコメディータッチに描く。基本的には、時代の変化についていけない男の自尊と孤独、苦悩。
しかし、全編を通して音楽が流れており、また説明的な字幕が多く出てくるので、「言葉がいらない」的なサイレントではない。そういう意味では、サイレント映画のオマージュとしても、手法が中途半端というほかない。これがアカデミーやカンヌの作品賞を取るということが、いまの洋画の現況を表しているという穿った見方をついしてしまった。

 結論。1989年作品のニューシネマパラダイスは、映画の黄金期を思わせる完成度。
イタリア映画をはじめ、名作強化月間への思いを強くした。



2012年9月7日金曜日

斎藤環 世界が土曜の夜の夢なら 〜ヤンキーと精神分析

日本文化に根付く「ヤンキー的なもの」についての、音楽・マンガ・古典・芸能にまで及ぶ膨大な知見には、「精神科医かつ文化人」たる筆者の深い洞察が垣間見える。相田みつをと木村拓哉をつなぐヤンキー性、精神分析の視点から見た「ヤンキー性の持つ本質的な母性性」など、いくつもうなづけることあり。

しかし、その反面、話がやたらと飛んだり、結論を先延ばしにして、結局後で十分な議論のないまま終わっていたり、消化不良な側面も多い。

著名人に関する「表面的な』分析は、精神分析かつ臨床家として的確な一面もあると思うが、本質的にヤンキー的なものと交わらない筆者にとって、一種の道化の対象としてシニカルに表現され尽くしている感も否めない。ナンシー関やマツコデラックスならそれで良いのかもしれないが、ちょっと臨床家としてどうなのか、と批判したくなる部分もある。

本作品の中で、最も面白かったのは、ヤンキー文化はは本質的に家族主義で関係性を重視し、切断する父性ではなくつなぐ母性を本質としている点。上下関係を重んじるタテ社会のなかでも、ヤンキー文化は理念やルールとは別の形で結びついた人間関係を基本としている面で女性的であるとする。対極にあるのは、規律と原理を重んじるカルトやファシズムの持つ男性性であると。
 これを読んで思ったのは、AKB48の持つ「原理と規則」である。
少女たちは、推しによる人気至上主義、という原理と「恋愛禁止」などの規則によって個人としては規律化されている。しかし、そもそもが、アイドルとファンの関係性、また、彼女らが必要以上に友情を押し売りする演技性の体質、などにヤンキー文化的スパイスが垣間見える。
 この、男性的な枠組みの中に見えるヤンキー性の融合が、最新の文化的到達点と言えるのではないか、ということ。ジャニーズのような単なるヤンキー文化だけではない点が新しいということか?

 一方で、私は、橋本治が述べる「サブカルチャーは通過儀礼である」という言葉にも深く同意している。ポップカルチャーの世界に生きている人にとっては、いくつになってもこのシステムはすんなり受け入れられるものなのだろうが、オタク・ヤンキー文化の両面とも「通過儀礼」として「過去化」してしまった人間にとって、どれほどの意味を持つのだろうか?ありきたりの言葉ではジュネレーションギャップだが、もはや生物学的な意味での「ジェネレーション」ではないだろう。

 相田みつをや木村拓哉を通過儀礼として、少なくとも個人的には消化してしまった人に取って、形を変えて新しく出現してくる「ヤンキー的なもの」や「オタク的なもの」は、もはや意味を持たない。

 筆者の論調で言えば、橋下徹を支持する人の多さを考えても、「日本人の大半はヤンキー的なものを望み、求めている」のかもしれないが、一方で斎藤環は「僕は違うけどね」とも言ってるわけだ。これはずるい。その点こそ、議論して欲しいところだ。

 文化の消費、効率化、媒体としての利便化。
 文化を楽しむには、面倒くさい道筋が必要である、または必要そうに見えること。本来、資本主義とは別の回路で動いていること。
 ヤンキーと江戸っ子の違い。伝統芸能を時代にあったものに変えて行くために、文化の担い手たちが行っている努力。
 私は、この書物を通して、むしろそういう純粋培養されているものの現在と未来の姿を想像するようになった。

2012年9月2日日曜日

一冊の本 135回 行雲流水録 橋本治 を読む 

斎藤環の「世界が土曜の夜の夢なら」が売れているらしい。サブタイトルが「ヤンキーと精神分析」。確かに面白そう。身の回りにいるけど、自分はなれない、なりたくない的なアウトロー。
 この本を発端に、今の日本がオタクとヤンキーを基調としてできあがっていて基軸がないと論が進む。

 なるほど、ヲタとヤンキーは、「そこらへんにいて、ネタにすると面白いけど、自分はなれないし、なりたくないし、友達にもなりたくないし、だから自分はノーマル」みたいな両極端な対象なのかもしれないな。

 「サブカルチャーとは通過儀礼である」

この言葉がすごく腑に落ちた。「通過儀礼としての必然」であって、「下らないから弾圧すべき対象」では断じてないはずだ。。。

 でも、日本人は豊かになり、自由になったから、「通過儀礼のトンネルを抜けなくても良いと思える人が当たり前にいる時代になった」というわけか。

 研究医のときに、「モラトリアム真っ只中だ」と上司に叱責されたことを覚えている。それに対して、「小言を言ってばかりで柔軟な発想を持てない上司なんて羨ましくも何ともないな」と思った。でも、きっとその上司は、職業人としてトンネルを抜けた後の世界を見て欲しかったんだろうなと思う。

 オタク文化は「当人の内面にフィットする」を前提にしていて、自分の内面を問題にしたがる人たちが多いから、結果として学問分野がどんどん「私の内面化して」いく。
これって、Twitter やFacebookでも普通に見られる現象だなあ。Social networkとは名ばかりで、自分と自分に対するイエスマンだけの、「心地よいプライベート空間」に浸る。ヲタ文化と同じなんだ。
 
 ヤンキーとは、反知性的で根拠なく前向きで、美意識がバッドセンスであるということらしい。ヤンキーの持つ「自分を嗤う」という要素は認めつつも、その決定的なバッドセンスな美意識が筆者にはどうにも受け入れがたい。私、政府や東電やメディアや、その他諸々のツッコミ対象について、ドヤ顔と上から目線で堂々と無自覚に「ダメ出し」する人たちは、ヤンキー的な要素を孕んだ美的センスのない人たちだと思う。

筆者の言う「日本の美意識」は「過剰をおそれず、しかし引き算を忘れず」だという。
そうか、「いとをかし」も「恥の文化」も「人間の業の肯定」も引き算だ。
当たり前のこと。豊かな日本における自由とは、文化的な規制のなさという負の遺産も産み出してしまったのか?

筆者は、「受け入れられないけれど、それが必要な人もいるのだから否定はすまい」という。まさに引き算を忘れず、だ。
 ここでも思う。想像力があれば、人間はそんなに確信的な行動はしないはずだ、と。

自由が人間の想像力を奪っている。溢れる情報と、情報の効率化によって。

2012年8月29日水曜日

立川談笑独演会 in 銀座博品館劇場

「居残り左平次」
「め組の喧嘩」

歌舞伎のお題目、「め組の喧嘩」が面白かった。
落語もやっぱりライブですなあ。

2012年8月27日月曜日

文芸春秋編 夢売るふたり 西川美和の世界 を読む。




「蛇イチゴ」で西川美和がデビューしたときに、多くの評論家が書いていたように、僕も、日常の中に潜む人間の善意と悪意のぶつかり合いを正面から、しかし柔らかく描くことができる作家であると思った。アニメのリメイク全盛期に「オリジナルの脚本で勝負できる、期待の女性映画監督」という声が聞かれるのにそう時間はかからなかった。

 そして、「ゆれる」「ディアドクター」で、彼女は、その確かな実力を証明し、現代を代表する監督の一人に数えられるようになった。特に、「ミニシアター」と「シネコン」の中間を行く作品として、希有な存在となりつつあろう。

 そんな彼女の新作、「夢売るふたり」の公開を前に、彼女の世界を過去の作品の論評、本人のインタビューや糸井重里との対談を交えて回顧する1冊。

 このなかで、彼女自身が「恋愛や男女を描くのが苦手である」と述べるのは、おそらく本音ではないか。この監督の真骨頂は支配・被支配の関係性の揺さぶりにこそあるのであり、今回のテーマである結婚詐欺を通して、主人公の夫婦関係がどのようにゆれていくのか、はまた興味深い。それよりも、「ゆれる」のアイデアが彼女自身が見た夢から来ていることや、「ディアドクター」の前に、プレッシャーから心療内科を受診し、そのときに出会った「いい加減な」医師や、卵巣腫瘍の入院中に出会った点滴のヘタな研修医とのかかわりからディアドクターが生まれたことなど、作品というのはどこから生まれるのかわからないな、というエピソードがあって面白い。

 そして、斉藤環による「ディアドクター」評が、目からウロコであった。
地方における偽医者システムを支える関係性が「恋愛」であるということ。
秘密の往診⇒食事⇒診療所での秘密の待ち合わせ⇒胃カメラを通して結ばれるふたり⇒事後の語らい の件は、恋愛に似た顔を赤らめたくなる初々しさが漂うという考察。なるほど、地方僻地にて「患者一人一人の役に立ちたい」というモチベーションは、恋愛に似ているのだ。モテたいんだ。偽医者の曰くつきの事情を知り、共犯関係を結ぶ看護師と薬剤師は、さしずめ、共同体を成り立たせる家族構成員ということになろうか?
 家族に限らず、地域でも共同体でも「個人の事情と大人の事情」が介在する。
 科学者として生きるのか、高度医療を提供する専門病院で先端医師として過ごすのか、共同体の中で疑似恋愛に似た関係を続けるのか、端的に言って医師の生きる道はそのいずれかということになろうか?