2012年9月25日火曜日

のぞみ1号と園子温


今日も、坩堝の電圧の話題。
音楽の坩堝のアルバムからは、いろいろな音が聞こえてくるのだけれど、沈丁花からあとの3曲には、岸田の想いが爆発していると思う。

のぞみ1号の最後
 
走れ、走れ、走れ。

のフレーズ。

幾度となく聞いているうちに、浮かぶ情景が、園子温のヒミズのラストシーンにシンクロした。
二階堂ふみの 「住田走れ、住田走れ」のシーン。

津波で荒廃した海沿いの道をどこまでも疾走する。
退廃の中に生まれた「生の衝動」。

音楽から映像がインスパイアされる経験をあまりしたことがなかっただけに、ちょっとびっくりしたけれど、この2人のクリエイターが、ポスト3.11 の世界と真摯に向かい合い、作品を生み出し続けている事と、それをリアルタイムに共有できていることをありがたいと思う。

2012年9月23日日曜日

京都にて


充実の京都2日間からの帰りの新幹線の中で書いている。今年の音博は2年ぶり、3回目の参戦となったのだが、 年々参加者が増えてきていて、今年は細野晴臣によると12000人とのこと。曰く、「こっちが3人で、そっちが12000人なんて、勝てるわけないよね。」

今年初めての試みとなった、ひとりジャンボリーにはアジアンカンフージェネレーションの後藤正文、andimoriの小山田壮平、ストレイテナーの
ホリエアツシなどくるりと同世代のアーティストが揃い、例年よりフェス色が強かった。ヒトリジャンボリーの中でも、ボボやファンファン、岸田が他のアーティストとセッションをこなしていて、よりくるり色が前面に出た格好だ。

それでも、やっぱりくるりのセッションは1曲目の「everyday feels the same 」から、いきなりファンとの一体感が生まれ、chili pepper japonesで一気に疾走する。惑星づくりでは、省念のチェロが圧巻。その後も、crab, reactor, futuresoma, のぞみ1号と新曲ラッシュで一気にハイライトへ。
のぞみはやっぱり名曲だと再確認。

そのテンションのまま、烏丸四条あたりで夜の食事どころを探していたのだが、どこも満員でなかなか入れず。たまたま見つけた路地の店が、非常によかった。おばんざいの盛り合わせは、ひじき、ポテサラ、おからなど、薄味の味付けでちょこっとづつ。くどすぎず、薄すぎないごま豆腐は絶品。
その後、鱧の炭焼きをわさびだけでいただく。丹後牛の炭火焼、金沢の遊歩をいただき、締めはさんまの蒲焼き入りのカレー。
途中、Ents (ストレイテナー)のTシャツを着た、星野源に似た男子おひとりさまとカウンターでちょこっと話をしいい感じで帰宅、

本日は、錦市場、清水寺、建仁寺など。

岸田と後藤は、今回の音博で不仲説を一蹴するセッションを行ったが、年も見た目も似ていて、音楽の方向性もやっぱり似ている。斜に構えた感じも似ている。しかし、昨日居酒屋でご一緒した星野源風男子曰く、「くるりファンとアジカンファンは被らない気がします」。彼は、中学校の時に音楽を聴き始めたのがくるりの「東京」だったそうで、君はなんとセンスが良いのだと思ったのだが、そんな彼のお気に入りは「魂のゆくえ」の「ベベブ」と「背骨」だそうで、やっぱりアジカンとくるりはずいぶん方向性が違い、ファンも違うんじゃないか、と改めて思ったりした。

今日、京都を歩いていて思ったんだが、岸田のあの繊細な感性は、京都の土壌が生んだ、もしくは京都の両親のDNAが熟成されて生まれたんじゃないか、と。京都 vs 横浜。

反原発の歌も、ストレートに表現する後藤に対して、岸田はあくまで感情を抑えて、シニカルにシニカルにボブディラン調。

京都には唐辛子の店と、ちりめん山椒の店が多いのにびっくり。「chili pepper japones」も京都だからこそ生まれた曲だ。
京風って「京風ラーメン」に代表される、薄口、薄味の代名詞として伝えられる事が多いが、そんな京都に、「梅干し」「ちりめん山椒」「漬け物」「唐辛子」の香辛料文化が繁栄したのは、「デフォルトが薄味」だからこそじゃないのか、と思わされる。

はんなり、をかし、もののあはれ。日本文化の原点は、やっぱりここではないか、と。
「ヒトリジャンボリー、しっぽり代表の岸田です。」
グレーテルのかまど、でやっていた、薄味のフルーツ。いちじく、あけび。

川床でいただいた、「京料理点心」1800円。
鴨、卵豆腐、お刺身は鯛、冬瓜の風呂吹き、かぼちゃ、サンマの蒲焼き、生麩田楽、酢レンコン、万願寺唐辛子。

2012年9月21日金曜日

くるり 坩堝の電圧 とりとめもない感想

「魂のゆくえ」ぐらいから、ネガティブな発言が続いて音楽も内向的になっていった印象のくるりが、B面ベストで一度彼らの歴史を顧みて、「言葉にならない笑顔を見せてくれよ」では、「温泉」や「目玉のオヤジ」で日常の些細な一コマの素晴らしさをさらりと仕上げた。

 その後、震災とメンバーの加入・脱退を経てたどり着いた本作。
 「Dog」や「o.A.o」のような、前作からの流れを汲んだ日常的なサラッとした清涼感のある曲もあるが、世間でも言われているように初期のくるりに戻ったようなバンド感満載のサウンドと熱さが特徴なのは一回聴けば明らかなのだが、やっぱり、その熱さの根底にあるのは反原発を基軸とした痛烈な政治や社会への批判と皮肉に満ちた「熱い想い」に違いない。岸田を原点回帰にもたらしたものが、皮肉にも大震災という「初めて人の不幸を自分のことのように感じた」経験が、そしてその後の世界の変化への違和が熱さにさらに火をつけたのであろう。

 とはいえ、そこは、ちょけでひねくれ者の岸田である。ストレートに「進め、進め、走れ、走れ」と表現はするが、2chで揶揄されているような、長渕剛とは180°違う。

 とにかくサウンドのバラエティーが豊富であること。19曲あって中だるみしないというのも凄いが、このアルバムには至る所に「曲同士のつながり」を見て取ることができる。plutoがcrab, reactor,futureの高速逆回転を利用して作られた実験的なサウンドで、その直後にボブ・ディランのような風刺曲が響くのも爽快だ。argentinaの後に続くfallingも、サウンドがそのままつながって行くように感じられる。
 そして、somaと沈丁花に至っては、ジャケットがsoma沈丁花と青と赤なのだが、この2曲は3.11後の、近過去と未来を唄った表裏一体の曲だ。「息子」は生まれた時には砂漠の中にいて、咲くこともできなかった沈丁花だが、「あてにせず、あせらず、あきらめず」「進み 走り 泳ぎ もがき」 「どこまでも続くこの道を 浜のほうへ 行くんだよ 産まれた場所へ いざなおう」と続く。これが岸田の願う相馬の未来そのものではないか? taurusやdogのような日常も、生きている限り続いて行く。時速300kmで走ることのできない僕たちは、それでも、文明の象徴たる「のぞみ1号」に励まされて、「生かされている限りは立ちはだからなければならない」

 3.11後に京都に引っ越した岸田は、「papyrus」のインタビューで、「ずっと前から東京は住みにくく、飽和していて、がんばらないと生きていてはいけないような感じがしていた」と語る。
しかし、京都に移った今でさえも、自分がどこに所属しているのかがわからないと言う。
当たり前に実家はあり、当たり前に毎日家に帰る。大震災で家ごと失った人の帰属感の喪失とは、どのようなものであるのか?
 東京に住み始めて17年たつ僕も、ここ数年彼が述べていた思いと同じような気持ちになることが多い。僕は東京で仕事をしているので、当たり前に毎日を過ごしているのだが、自分の身の丈にあった仕事ができる環境は東京ではないのではないかと思うこともある。

 「glory days」 は、彼自身がくるりの過去と現在の思い出を交差させながら、このように締める。

“ときおり 思い出せよ 無くなってしまった過去も
誰より知りたいはずの 未来も”

人は、たぶん年を取れば取るほど、思い出に強く影響される生き物だと思う。
思い出があるから、今の自分があるのだし、もしかしたら、「帰属感」というのは、ありきたりな言葉だと「ふるさと」だし、「母校」だし、「安心な僕らの旅」だし、「君が素敵だったこと」だし、「裸足のままで行く、何も見えなくなる」ことなのかもしれない。

でも、たぶん「今のくるり」が伝えてくれることは「everybody feels the same」なんじゃないかな?世界を越えて音楽は人の心に通じる。そして、everybodyは、クマバチも牡牛も、犬も、チャイナドレスも、アルゼンチンの電車も 。

そして、何より、somaで唄われる、どこまでも青い空の「未来」を想像し、ときどきは、「そんな未来を思い出せよ=(希望を持って)思い描けよ」と言ってくれているのだと思った。

過去と未来は一方通行の時間軸ではなくて、このアルバムが示すように行き来しながら一つの作品(人生)となる。その作品を形作るものは、植物や生き物や、使い古された電車や、挫折感に満ちたシューズや、喝を与えてくれる香辛料など、まさに「坩堝」だ。
 僕たちの未来は、きっとそんな坩堝の電圧が持つエネルギーにより規定されるのだろう。そんな強度を持ったアルバムだな。

明日は京都音楽博覧会。

2012年9月20日木曜日

くるり 坩堝の電圧

完全限定版をなんとか購入。
音楽の楽しさと豊かさを味わわせてくれる、確かに噂に違わぬ最高傑作。

冬のライブで聴いた「のぞみ1号、」が素晴らしい。

2012年9月18日火曜日

石破茂×宇野常寛 こんな日本をつくりたい


政治家と評論家の対談集。
こういう時期に特定の政治家の思想ばかりを読むのはどうかなあ、と思いつつも、宇野常寛の熱い前書きに触発されて購入。

国民主権の意味と、自助・共助・公助の原則。とっくに賞味期限の切れたOSさえ変えられない日本の体質。宇野の切れ味鋭い問題意識に対し、迎合するだけでなく是と否をきちんと語る石破氏。

石破の発言で、「一つ言えるのは、人は自分に余裕がないと決して人に対して優しくなれない、ということです。環境が整わないと、利他性というのは生まれない」というところは、まさにその通りと思った。
「共助」の精神を原則とするためには、特に支える側に余裕がないと。
 金銭的、人的、システム的余裕。社会保障と雇用、保育園などの現物給付は、そのためにも最優先されるべき政治的課題だ。

 政治家の発言は二枚舌を前提にして、またメディアのフィルタを通してメディアの意図を読み取りながら吟味して行く必要はあるが、現時点でここまで自らの意見を語りきれる石破氏の今後の動向には注目して行きたい。

2012年9月16日日曜日

英語にできない日本語

サンデーモーニング。

日本に古来からあった「いなし」の思想。

英語に翻訳できない言葉って大事にしたい。
いとをかし、も同じ。

力と力の戦いは、破壊しか生まない。

「いなし」(往なし、去なし) weblioでは、handle  cleverly
うーん、やっぱり違う気がするなあ。

2012年9月8日土曜日

アーティスト & ニューシネマパラダイス@早稲田松竹 

夕方18:30からの二本立て。アカデミー作品賞のアーティスト目当てだが、密かにスクリーンで初めて見るニューシネマパラダイスも楽しみに。

まずは、ニューシネパラ。
この映画の舞台がイタリアのシチリアで、敗戦国イタリアの戦後復興に併せて、教会で市民の憩いと、唯一の娯楽として人気を博して行く時代背景は、なんかあまり記憶になかったから再発見。駅馬車やカサブランカなどの名作をちりばめながら、アルフレードに名台詞を語らせて人生の立ち行かなさや困難さを、さりげなく示しつつ、まさに全編映画に対する壮大なオマージュになっている。
 ローマに出て成功したサルバトーレが、アルフレードの死の知らせを聞いてベッドで、街を出て行くまでの回想の後に、シチリアに戻ったあとの余韻に満ちた描写は、廃墟となったニューシネマパラダイスと、そこに染み付いた追憶から、見る者にもサルバトーレ同様にこみあげる感情を喚起する。

 この最後の15分のシーンは、ほとんど言葉がない。亡きアルフレードがサルバトーレに遺した「素晴らしいキスシーン」は言うまでもなく、時を経た主人公や母、神父などの役者の表情は、本当に素晴らしいと思う。結論から言うと、ニューシネマパラダイスは、まさにサイレント映画の要素を取り込んでいて、アーティスト以上にサイレントなのである。それでも、この二本立てのペアをセレクトしたスタッフは凄いと思う。
(P.S オリジナル完全版は劇場版より50分以上長いのだが、私はこの劇場版の方が断然好きである。)

 
 で、アーティスト。
 これは、サイレント映画と呼ぶには語弊がある。無声映画のスターの凋落と再生をコメディータッチに描く。基本的には、時代の変化についていけない男の自尊と孤独、苦悩。
しかし、全編を通して音楽が流れており、また説明的な字幕が多く出てくるので、「言葉がいらない」的なサイレントではない。そういう意味では、サイレント映画のオマージュとしても、手法が中途半端というほかない。これがアカデミーやカンヌの作品賞を取るということが、いまの洋画の現況を表しているという穿った見方をついしてしまった。

 結論。1989年作品のニューシネマパラダイスは、映画の黄金期を思わせる完成度。
イタリア映画をはじめ、名作強化月間への思いを強くした。



2012年9月7日金曜日

斎藤環 世界が土曜の夜の夢なら 〜ヤンキーと精神分析

日本文化に根付く「ヤンキー的なもの」についての、音楽・マンガ・古典・芸能にまで及ぶ膨大な知見には、「精神科医かつ文化人」たる筆者の深い洞察が垣間見える。相田みつをと木村拓哉をつなぐヤンキー性、精神分析の視点から見た「ヤンキー性の持つ本質的な母性性」など、いくつもうなづけることあり。

しかし、その反面、話がやたらと飛んだり、結論を先延ばしにして、結局後で十分な議論のないまま終わっていたり、消化不良な側面も多い。

著名人に関する「表面的な』分析は、精神分析かつ臨床家として的確な一面もあると思うが、本質的にヤンキー的なものと交わらない筆者にとって、一種の道化の対象としてシニカルに表現され尽くしている感も否めない。ナンシー関やマツコデラックスならそれで良いのかもしれないが、ちょっと臨床家としてどうなのか、と批判したくなる部分もある。

本作品の中で、最も面白かったのは、ヤンキー文化はは本質的に家族主義で関係性を重視し、切断する父性ではなくつなぐ母性を本質としている点。上下関係を重んじるタテ社会のなかでも、ヤンキー文化は理念やルールとは別の形で結びついた人間関係を基本としている面で女性的であるとする。対極にあるのは、規律と原理を重んじるカルトやファシズムの持つ男性性であると。
 これを読んで思ったのは、AKB48の持つ「原理と規則」である。
少女たちは、推しによる人気至上主義、という原理と「恋愛禁止」などの規則によって個人としては規律化されている。しかし、そもそもが、アイドルとファンの関係性、また、彼女らが必要以上に友情を押し売りする演技性の体質、などにヤンキー文化的スパイスが垣間見える。
 この、男性的な枠組みの中に見えるヤンキー性の融合が、最新の文化的到達点と言えるのではないか、ということ。ジャニーズのような単なるヤンキー文化だけではない点が新しいということか?

 一方で、私は、橋本治が述べる「サブカルチャーは通過儀礼である」という言葉にも深く同意している。ポップカルチャーの世界に生きている人にとっては、いくつになってもこのシステムはすんなり受け入れられるものなのだろうが、オタク・ヤンキー文化の両面とも「通過儀礼」として「過去化」してしまった人間にとって、どれほどの意味を持つのだろうか?ありきたりの言葉ではジュネレーションギャップだが、もはや生物学的な意味での「ジェネレーション」ではないだろう。

 相田みつをや木村拓哉を通過儀礼として、少なくとも個人的には消化してしまった人に取って、形を変えて新しく出現してくる「ヤンキー的なもの」や「オタク的なもの」は、もはや意味を持たない。

 筆者の論調で言えば、橋下徹を支持する人の多さを考えても、「日本人の大半はヤンキー的なものを望み、求めている」のかもしれないが、一方で斎藤環は「僕は違うけどね」とも言ってるわけだ。これはずるい。その点こそ、議論して欲しいところだ。

 文化の消費、効率化、媒体としての利便化。
 文化を楽しむには、面倒くさい道筋が必要である、または必要そうに見えること。本来、資本主義とは別の回路で動いていること。
 ヤンキーと江戸っ子の違い。伝統芸能を時代にあったものに変えて行くために、文化の担い手たちが行っている努力。
 私は、この書物を通して、むしろそういう純粋培養されているものの現在と未来の姿を想像するようになった。

2012年9月2日日曜日

一冊の本 135回 行雲流水録 橋本治 を読む 

斎藤環の「世界が土曜の夜の夢なら」が売れているらしい。サブタイトルが「ヤンキーと精神分析」。確かに面白そう。身の回りにいるけど、自分はなれない、なりたくない的なアウトロー。
 この本を発端に、今の日本がオタクとヤンキーを基調としてできあがっていて基軸がないと論が進む。

 なるほど、ヲタとヤンキーは、「そこらへんにいて、ネタにすると面白いけど、自分はなれないし、なりたくないし、友達にもなりたくないし、だから自分はノーマル」みたいな両極端な対象なのかもしれないな。

 「サブカルチャーとは通過儀礼である」

この言葉がすごく腑に落ちた。「通過儀礼としての必然」であって、「下らないから弾圧すべき対象」では断じてないはずだ。。。

 でも、日本人は豊かになり、自由になったから、「通過儀礼のトンネルを抜けなくても良いと思える人が当たり前にいる時代になった」というわけか。

 研究医のときに、「モラトリアム真っ只中だ」と上司に叱責されたことを覚えている。それに対して、「小言を言ってばかりで柔軟な発想を持てない上司なんて羨ましくも何ともないな」と思った。でも、きっとその上司は、職業人としてトンネルを抜けた後の世界を見て欲しかったんだろうなと思う。

 オタク文化は「当人の内面にフィットする」を前提にしていて、自分の内面を問題にしたがる人たちが多いから、結果として学問分野がどんどん「私の内面化して」いく。
これって、Twitter やFacebookでも普通に見られる現象だなあ。Social networkとは名ばかりで、自分と自分に対するイエスマンだけの、「心地よいプライベート空間」に浸る。ヲタ文化と同じなんだ。
 
 ヤンキーとは、反知性的で根拠なく前向きで、美意識がバッドセンスであるということらしい。ヤンキーの持つ「自分を嗤う」という要素は認めつつも、その決定的なバッドセンスな美意識が筆者にはどうにも受け入れがたい。私、政府や東電やメディアや、その他諸々のツッコミ対象について、ドヤ顔と上から目線で堂々と無自覚に「ダメ出し」する人たちは、ヤンキー的な要素を孕んだ美的センスのない人たちだと思う。

筆者の言う「日本の美意識」は「過剰をおそれず、しかし引き算を忘れず」だという。
そうか、「いとをかし」も「恥の文化」も「人間の業の肯定」も引き算だ。
当たり前のこと。豊かな日本における自由とは、文化的な規制のなさという負の遺産も産み出してしまったのか?

筆者は、「受け入れられないけれど、それが必要な人もいるのだから否定はすまい」という。まさに引き算を忘れず、だ。
 ここでも思う。想像力があれば、人間はそんなに確信的な行動はしないはずだ、と。

自由が人間の想像力を奪っている。溢れる情報と、情報の効率化によって。