2017年1月18日水曜日

誰か助けてくれ

約1年ぶりの投稿。

舞城王太郎の「秘密は花になる」を読む。
もう、自分を勇気付けてくれるのは彼だけかもしれぬ。

自分が嫌いなことなんて知ってる。
自分を好きになるために人を利用していることだって知ってる。
自分はズルい人間。
みんなの前で真人間でいようとする。
永遠の中2病。
自分を好きになる方法、は本谷有希子の三島賞作品。
女子はいいよな。
キラキラしてるよ。

自分が嫌いなオッサンって冴えなさすぎでしょ。
なんだよ。

答えがないことを受け入れること。
それは妥協か。
知らない。
自閉するのか、外へ働きかけるのか?どっちだ?

公人なのか、私人なのか?
家族なのか、仕事なのか?
どっちとるのかわからない。
で、一人で飲んでる。

そんなもんだよな。
それが自分らしい気もする。
ちょっと自分のことが好きになる。
そんな今の気分を記憶していたくて記録する。

2016年3月21日月曜日

マイノリティに気づくこと、当事者として。

数年ぶりに臨床に復帰して、まもなく1年が経とうとしている。
またも主観的な時間感覚はとても短くなった。あっという間の1年だ。
そして、休日に1歳を超えた子供と時間を過ごしていることもその一因であろう。
一人の時間のなんと少ないことか。

ただ、最近とみに思うことだが、子育てというのはとても大変なものである。こんなこと今さら大きな声で言うことではないのだろうが、本当にその通りなのだ。
小児科医になりたての頃は、オーベンの「小児科医は早く結婚して子育てをした方が良い」という発言には、今の「女性は早く子育てをした方が良い」と同じようなおせっかいさを感じて、ちょっとイラっとしたものだった。実際にそんな「自ら子育てちゃんとしてる小児科医」という売り込み方にもイラッとしたりしていた。

 僕は昔から、小児医療に携わる人々の「ピュアなものを扱う感じ」があまり好きではなかった。性善説の押し売り、どんな子にも等しく生きる権利云々・・・理念はわかるのだが、それが次第に自分の診療において目的化していくような、そしてそのような同調圧力に耐えられない自分がいた。精神科の友人に「小児科はキレイすぎる」と言われた一言が妙に残っていた。
 しかし、小児病院での4年間を過ごす中で、そのような一種ユートピア的思想は、ある程度必要であること、そしてその空間の中にいる限りは居心地の良いものであると感じたわけである。

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僕は常々、臨床医になるということは、「病という他人の不幸を相手に仕事をすること」であると考えている。そして、臨床医のモチベーションとしてまず第一に、「病気を治すことで人々を幸福にする」ということがある。そのような崇高な理念に支えられた医療は、まずは外科と救急である。一方、僕のような神経、精神を専門にしている者は、治らない病気=慢性疾患を相手にしているわけで、「あなたの病気と、病気を持ったあなたの主治医である」ことそのものが臨床医としての存在意義となる。この時に必要な視点は、「病気であるというマイノリティ」に対する視点である。病者は、自分の病気について不安を感じる。この不安を相手に「専門家」として仕事をすること、それこそが臨床医の存在意義であると思う。
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自分自身の子育てを通じて、臨床の幅は明らかに広がった。
まず、乳児健診や一般診療で、お母さんからの質問を、自分の経験に照らして答えることができるようになったことである。「子供が夜に泣いて寝ない」という不安を、経験として「理解」することができることである。その結果、自分の中にあった「冷淡さ」が減ったと思う。育児不安や虐待に対しても、善悪ではなく理解として接することができることである。

 子育てというのは、多くの人が経験していることだと思うのに、やっぱり世の中は子育て世代には冷淡だと思う。百貨店や地下鉄は、優先エレベーターを設置すれば責任を果たしたと言えるのだろうか?東浩紀の「ショッピングモールから考える」を読んで感じたことだが、本当に百貨店は子育て世代に対してできていない、と思う。20代後半から30代が百貨店の主客層ではないからだ。消費者は百貨店のサービスを当然のこととして享受する。そこにマイノリティが存在していることなど気づきもしない。

老、病、幼。人の抱えている「不自由さ」はそれぞれだが、真に自由であるということは、翻って不自由を自覚して初めて気づくものなのかもしれない。人の不自由さを見ることはしても、同情はしても、想像はしない。そんなものなんだろう。
 とても逆説的なのだが、僕は子育てを通して、「子育て世代の社会におけるマイノリティさ」を知った。そして、そのような気づきは、小児科医としては絶対に知っていないといけないことだと思うのだ。子供の貧困、ひとり親、虐待。小児科医が子供のアドボカシーとなるためには、やはり子育てはできるものならした方が良い、ということだ。そして、そうであるならば、小児科医が子育てをできる職場環境を作っていくこともまた当然のことである。保育も、小児医療も、生産性や収益性は少ないのかもしれない。しかし、多くの人が気付いているように、今や価値はそのようには計れないものである。


2015年6月7日日曜日

お笑い芸人との相性

 NHKのLIFEを僕は結構好きで毎週見ている。笑いとしてはいかにもNHK的で、ゆるく多くの世代に見てもらえるような作りになっている。レギュラーメンバーも、濃いキャラよりも茶の間受けするようなメンバーが揃っている。子供の頃にどのお笑い芸人が好きだったか、というのは多分に家庭のしつけや道徳観などに影響されていると思うのだが、僕が中学生ぐらいだった頃、実はウッチャンナンチャン派だった。三重という土地柄、ダウンタウンが一番人気、さんまや紳助は上位、東京の笑いではとんねるずが優勢だった。学校での話題について行くために、面白くないと思いながらもオジンガーZやおかんとマーくんを見ていた。
 なぜこんな話をするかと言うと、来週のLIFEの予告編で、ちはるが出て来て「ミモーマモー」をやるからだ。これ、結構胸熱ですぜ。

 お笑い番組のいくつかのスタイルの中で、さんまのからくりTVのご長寿早押しや、ごっつええ感じのオジンガーZは、素人の老人の「天然」をいじるというものがある。一方で、LIFEで石橋杏奈や西田尚美という正当派女優がコントをやるスタイルは、正当派が本来持つ内在的なお笑いの素質を引き出している。その走りが「ミモーマモー」だったんじゃないだろうか?西田尚美は矢口史靖の「ひみつの花園」で完全なコメディーを演じている。このウッチャンナンチャンのスタイルは、志村けんのバカ殿様やドリフの8時だよ全員集合、さらには萩本欽一に遡ることができるのではないだろうか?

 さんまやダウンタウンの「毒」を好む者は内村の笑いは物足りないだろう。さんまは浅田美代子や中村玉緒を見出したが、これも「天然」をいじるものである。

 コントの中に普段見ることのできない素因を垣間見る、そこに笑いが生まれる、というのは自分に合った笑いなのだな、と改めて思う。そして、それこそがコントの存在意義の1つではないか、とも思う。ひな壇芸人全盛の今の笑いは、笑いをプロデュースするのではなく、内向きに笑いをひねり出している感じがある。さらにしゃべくり7のように、多人数でいじることにより笑いを作り出している感じがある。ボケを探してつっこむのではなく、ボケやすいように話を持って行く、というのが芸なのではないだろうか?


2015年5月5日火曜日

愛と信頼

 新しい職場に移って1ヶ月経ったので、思うところをつらつらと書いていこうと思います。というのも、異動前から「いろいろと問題のある職場だ」ということをあちこちから聞いていたのだが、それを自分の目で見て思うところがあって、整理する必要があるから。

 それで一番問題だな、と思ったのが、職種間の相互信頼関係がないことだった。ミスが起こる、お互いにお互いのせいにする。至る所で悪口を言う、好きな人だけをえり好みする。これは根深いなあ、と。
 
 僕はかなり変な人間なのか、できない人ややる気が無い人は、なぜそうなんだろう、と考える。「能力」と「やる気」では全然できない原因が違うから。あとは「経験」も。経験が無くてできないことを責めても仕方が無い。まあ、あまり向上心が無い人が多いようにも見えるのは残念だけど、それも組織としての特徴だろうとは思う。

 信じることと信じられるようになること、どちらが先なのだろう?
この問題を考える前に、愛することと愛されることは、どちらが先かを考えてみよう。
後者の問いには、僕はためらわず「愛されることが先」と答える。それは、親に愛されずに育った子に、人の愛し方がわからない子が多いという事実があることからも、明らかだ。つまり、人が誰か(や何か)を愛することができるためには、自分の意識しないところで「人に愛されている」経験が必要不可欠なのである。
 そうすると、自分に人を愛する能力が備わっている人は、愛に迷っている誰かのことを愛する責任がある、ということになる。誰かを愛して家庭を持つということは、その後生まれてくる子供を親として愛する資格を得ると同時に、責任を持つということである。
 小児医療に携わるもの(特に小児看護)は、病という危機に瀕した家族に対して看護とともに愛を与える資格を持つものである。この職業的な自覚こそ、仕事に向かう基本的な姿勢ではないだろうか?

 では、前者の問いはどうだろうか?これは案外難しい。1つ思うことがある。それは「親は子供を信頼する」ということ。これは子供が何事にも素直だからだ。素直な者は信頼される。でも、素直すぎると人に裏切られる可能性もある。これが難しい。とはいえ、本来「信頼」は見返りを求めないものであるはずで、裏切りは「信頼できなくなる決定的事由」である。だから、「裏切りにあっても人を信頼する人間であり続ける」は能力である。人に信頼されるために自覚しておいた方が良いのは「自分で自分のことが信頼できるのか?」という自問であろう。「自分が人を信頼する条件が、自分に備わっているのか」は自分の行動を規定するものである。

 お互いに不信からディスりあうことの不毛さ(非効率性)は至るところで述べられていることだろう。1つ1つ、地味に信頼関係を築くことからだ。


2013年9月26日木曜日

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに 貴戸理恵 を読む


岩波ブックレットシリーズ。時代の変化に伴って、モノ作りからサービス業への職業スキルの転換があり、それに従い、社会性やコミュニケーション能力というものが話題になる機会が増えた。社会性とコミュニケーションの障害である自閉症も、その軽症型を含めたスペクトラムとしての疾患概念が認知されて久しい。
 筆者は不登校やひきこもりの背景にあることを「関係性の生きづらさ」とし、その原因を考える。生きづらさのタイプを、1)学校や仕事などのキャリア, 2) 病、障がい、老い、性嗜好などの弱さ の2つに分類し、さらにA) 市場原理、B)社会の仕組み C) 当事者性 の3つの重視する立場を定義して、生きづらさを理解するための考え方を6通りの立場から呈示する。この分類が非常に分かりやすい。自分が常々、どの立場から彼らのことを見ているのか、ということにも自覚的になることができた。自己責任論、優生思想は、A)市場原理を重視する立場、貧困や格差という不平等を重視する社会要因論、病・老・障がいなどの「弱」を福祉的に支えるという社会保障的立場は、B)社会の仕組みを重視する立場、依存症の自助グループ、グループホームなど「弱さの承認と、同じ境遇の仲間との共同」は、C)当事者を重視する立場 である。

 どの立場から見るのが「正しい」のか、の答えはない。できることは、「立場が違えば見方が違う」ということを認めるだけだ。「関係性の生きづらさ」を理解するためだけに、これほど多様な視点があることを知るだけだ。しかし、筆者は、自らの不登校=生きづらさ体験を終章でカミングアウトしながら、生きづらさを抱えていない、もしくは、努力によって生きづらさを克服した「わたし」の当事者性について言及する。

函館1泊2日旅行

9月の3連休×2。
1週目は台風で仙台行きの予定を回避。
2週目はどうしよう、と思い立って函館へ。

函館は3回目。学生時代の北海道周遊旅行、札幌小樽との旅行に次いでだが、実は函館だけゆっくり回るのは初めてかも。

7時台の羽田空港発に乗り、8時30分には函館へ。幸いにも快晴。
レンタカーを借りて、大沼に向かう。
国定公園であり、ラムサール条約の保護湿地にも認定されている。
3連休にしては人はそれほど多くはない。
大沼公園駅付近に車を停め、函館初の食事は100年の伝統を持つ大沼だんごと山川牛乳。あんことみたらしで、甘さは程よく、大きさもちょうどよく、美味ー。
http://www.hakonavi.ne.jp/oonuma/numanoya.html

湖畔から見える駒ヶ岳は絶景。島巡りの50分ほどのウォーキングでもちょうどよい気候。中国からの観光客が多数で、みんなレンタサイクルに乗って集団で押し寄せてきて、あー、ちょっと文化の違いを感じた。

 昼過ぎに大沼を後にして、そのまま五稜郭へ。ここで、遅めのランチに塩ラーメンのあじさい本店へ。2時過ぎなのに、大行列!。函館市内は観光客でごった返していて、びっくりした。しかし、噂に違わず海鮮の塩はあっさり、かつ旨みはしっかりで、昔よく食べた札幌の塩ラーメンとも違ってなかなかでした。その後、五稜郭タワーから公園の全景を眺め、公園内をぶらぶらと。そういえば、昔このお壕をボートに乗ったことがある記憶が蘇った。洋風のカフェに入りたくて、公園近くの「ピーベリー」に。チーズケーキが何とも言えない美味しさで、コーヒーも、マスターの雰囲気も異国情緒漂っていて素晴らしい。
http://tabelog.com/hokkaido/A0105/A010501/1002976/

お壕沿いを歩いていると、ランニングしている人の姿が目立つ。あーそういえば皇居もこんな感じだよなあ、と改めて思うが、周回がコンパクトで正五角形の五稜郭の方が、景観としては良好だな。地元の方の生活が垣間見れて満足。

函館国際ホテルにチェックインし、そのまま車を置いてタクシーで函館山ロープウェイへ。うー、凄い人と車だ。ロープウェイに揺られて山頂に行き、展望台から三大夜景を臨む。夜景の写真はなかなか上手く撮れないので、動画でごまかし、後はプロにとってもらう。そして・・・ 行きはよいよい、帰りは怖い! 帰りのロープウェイまで30分以上は待ったなあ。こういうところで停電だったり地震にあったりしたら、やばいよなあと思いながら、ようやく山麓駅に。ここでも、中国人の観光客が観光バスで多数やってきていた。ツアー恐るべし。
 だからか、元町の教会のライトアップを見ながら市電の駅まで歩いていたが、ロープウェイの人はどこに消えたの、っていうぐらい空いている。ハリスト正教会などを見て、八幡坂を降りて末広町駅から市電で松風町まで。惜しむらくは、ここで元町公園まで行かなかったこと。翌日昼に訪れて、あー、こりゃ、夜にも来るべきだったと後悔した。


 夕食をどうするか、は散々悩み、地元民の行きそうな小さな居酒屋を狙ったけど満員。やむなく、根ボッケのお店へ。
http://tabelog.com/hokkaido/A0105/A010501/1004944/

しかし、根ぼっけは美味かった。朝市で伺ったのだが、根ぼっけは道内産で、縞ボッケはロシア産らしい。縞ボッケのが割高なのだが、それは品薄だからで、「北海道に来たら根ぼっけだよ」とのお話。やっぱり現地に来ないと分からない話もあるよなあと納得。

活イカ刺、タラバガニ焼き、ウニ、いくら、根ぼっけ焼き、バッテラといただきました。
キンキも食べたかったけど、さすがに予算オーバーで断念。キンキは縁起物なので、正月などのお祝いに使うそうです。

 2日目はもちろん朝市から。どんぶりストリートがあるのだが、どうも特徴が分からない。他の店は1階で営業をしている中、敢えて1階が店で2階が食堂という不利な条件とも思える道乃家食堂へ。うにいくらアワビの3色丼をいただく。その後は、強引な客引きにめげずに良心的な商店に入り、掘り出し物をうかがう。根ボッケ、鵡川のししゃも、いくら、ウニを購入。そして甥姪のためにらいでんメロンを購入。夕張メロンは夏で、秋のこの季節はらいでんメロンだそうです。

 金森市場、元町公園、高田屋嘉兵衛資料館、旧イギリス領事館、旧函館区公会堂などを回り、今日も喫茶店へ。元町珈琲館。大学生の団体がどやどやっといてビビった。

 飛行機は夜19時だったのだが、少し余裕を持って、トラピスチヌ修道院と湯の川温泉、熱帯植物園を巡り、見晴公園で夕陽を見て空港へ。空港の食堂で豚丼とイカの沖漬け、ジンギスカンを食べて1泊2日の旅は終了。

結構1泊で回れるなあ、と思った反面、観光地は集中的に人が集中し、もう少し分散するような戦略があったほうがいいんじゃないかなあと思った次第。JR北海道も大変そうだけど、九州がやっているような企画列車を使って集客を狙ってみてはどうでしょうかねえ?

函館の街自体は、さすがに歴史のある落ち着きと西洋的な佇まいのあるいい街だなあと思った。娘さんを中学から函館の寮生活(函館白百合)をさせていたけど、子供が中学時代を過ごす街としては悪くないんじゃないかな、と思いました。


 

2013年9月6日金曜日

橋本治 初夏の色


橋本治の最新短編集。どこにでもいる家族の肖像と日常を、そのディテールまで繊細に描かせたらこの人の右に出るものはいない。

そして、今作は震災を通して、人間の心理の変化や関係性の変化を切り取った作品が多い。「助けて」や「海と陸」で描かれた「震災後」の情景の1つは、どこまでも続く「無」への恐怖であり、「在」であった陸が震災によって「無」になったことの絶望感が人間の心理を通して情景とともに伝わってくる。

「海と陸」で描かれる、自分の感情に正直に生きる強い女の葛藤と、そんな女が「どうとも思ってない」男だから馴れ馴れしく抱きつくことができるという不思議さ、というのは男と女のリアルな関係性だ。「小舟に乗って海に出る女を陸から見ている男」。男って悲しい生き物だ。

 そんな男女の関係をもう一歩進んで描いているのが「枝豆」。「草食系男子」の定義についてあーだこーだ言いながら、男は自分の中に眠っている性欲という「内部的な暴力」をどう扱って良いのかに悩む。いわゆる「草食系優位」の世の中では、男は「動物」と「社会的人間」の狭間で、自らの内部的な暴力を「自制」することをデフォルトとするため、「女性に対して性的関心がある」という事実を裏付ける「内的欲望」が育たない。なるほど。社会的な生き物として「人間」を見るとき、女性は内的に「愛着」を持っている。オキシトシンを出すしね。一方男性は、内的に「動物的欲求」を強く抱えている。月並みに言えばドパミン優位ってこと。うーん、でも、男性が社会性を獲得するのと自分の内的欲求に気付くのと、どっちが先になのだろうか??