2012年11月22日木曜日

タクティールケアからの〜 発達障害の療育

 今日、バイト先で、感覚過敏の強い患者さんに「タクティールケア」なるものを教えてもらった。認知神経科学を中心としたシステム神経科学を勉強してきた私にとっては、療育というのは、認知神経科学を土台とした「その先にあるもの」という意識が強かった。
 発達障害の子に対して、適切な薬物治療とリハビリ・療育をバランスよく行うためには、システム神経科学の観点から「発達障害」という曖昧模糊とした雑駁な診断を再分類する必要があると考えていた。

 しかし、今回、患者さんがリハビリの先生に「タクティールケア」を教わって言えで実行してみたら、「この子はこんなにも体が固かったのか?」とお母さんは驚いたというのだ。知覚に対する過敏や鈍麻(いわゆるinputの問題)が主たる病態であるタイプは、その先に不適切な学習と、不快な感覚を回避することによるこだわり、行為の常同性があるため、エアーズが提唱した感覚統合療法が有効である。IPLなどの頭頂葉における感覚統合にその障がいの責任の一端がある可能性があるが、inputの問題に伴って異常なoutput(運動、姿勢など)が産み出され、だからこそ、そこ(異常な身体性)に働きかけることが治療介入的に重要であるというシンプルなことを伝えきれていなかったことを反省した。

 リハビリに主眼をおく医師や療法士は、薬物治療について懐疑的である人も多い。しかし、特に情動過敏のある(これも感覚過敏の一種と言えるのかもしれない)タイプでは、不安が強すぎて療育どころではない、という人をよく見かける。まったく集団に入れない子がいい例だ。こういうタイプには薬物治療は有効であることが多いと思う。BZP系薬剤を少量、ないし、抑肝散などの漢方薬を使用することである。

 せっかくここまで書いてきたので、応用行動分析(Advanced Behavior Analysis:ABA)についても触れておきたい。バラス・スキナーらが精神分析に対抗して提唱したもの。オペラント条件づけを基幹理論としており、不適応な行動を誤った学習の結果として獲得されるものとし、行動を分析する。
A 先行刺激⇒B 行動(レスポンス)→C結果(報酬or 罰)

のしくみで、行動の強化および変化を促すのがD.T,T(discrete trial training)である。

鬱やPTSDの最も効果的な治療とされる認知行動療法(CBT)は、患者の認知(ものの考え方、受け取り方)に働きかけて問題を解決していく、広く行われている方法ですが、ここまでくると範囲が広すぎてわかりません。発達障害も、個々の発達レベルと認知の偏りを考慮に入れて療育を行うべきであり、当然スキルとして知っておかなければ行けないことなんでしょうが、勉強しないと(汗)
  

2012年11月15日木曜日

見据えるべきは、その先だろ

昨日の党首討論は見応えがあったなあ。
 冷静に見ると野田の言ってることは論理矛盾しているんだけど、討論という観点から見ると、安倍は支離滅裂で野田の圧勝だった。
 
 中道とは言うが、TPP反対派、鳩山派などがさらに離党し、民主党は惨敗しながらも純化されていることだろう。
 対照的なのは、小異を捨てて大同を唱える維新・太陽・減税。なにやら、既成勢力に対するということだけで寄せ集められた「第二の民主党」。今度の選挙で数を取ったその後の動きでしょうね。

 日本って、二大政党に向かわないのかなあ。リトルピープルが、リトルピープル同士、流動的に結合しながらじゃないと前に進んでいかない、そういうことなんだろうかな?

 結局、キャスティングボードを握るのはいつも公明党って感じ。ああいう支持基盤がしっかりしている中規模政党がいくつかできる、というのが一番安定しているんだろうな?過半数という権力闘争をあきらめさえすれば、本当に必要なことが決められるのではないかなあ。

 
 今回の野田の信念の行動が示したものは、目先の利益ではなく、見据えるべきはその先だろ、ってこと。TPP、社会保障、そして安全保障・歴史認識。民主党ではなく野田(派)の姿勢。

 一方で、相変わらず行動の軽さが目立つ安倍が、facebookで誰に何を語りかけているのか、大事なのはフォロワーではなく、無党派層に「その人間性」をどう評価されるのか、それに尽きると思う。石破ではなく安倍を選んだ自民党。鳩山・菅と来て野田に行き着いた民主党。これからが楽しみだ。
 

2012年11月12日月曜日

日曜ゴールデン何やってるんだテレビ

 漫才師、お笑い芸人の「超大物」が出なくなり、百花繚乱、とにかく数で勝負の時代となって久しい。テレビで届けるお笑いは「お笑い芸人に面白いことをさせる」チャレンジ系、「お笑い芸人のこんな一面を見せる」文化系(アメトーク、世界は言葉で出来ているなど)、たくさんのネタを見せるてんこもり系(レッドカーペットなど)、など、とにかく企画の斬新さとボリュームがたよりだった。

 たけしと石橋がMCを務める「日曜ゴールデン何やってんだテレビ」を初めて見た。
ネットでは、「初回視聴率8%」と早くも企画倒れをネタにした記事を見つけて、失敗させたい感ありありなんだけど、これが面白い。

 たけしとTBSというと、安住と組んだ情報7daysニュースキャスターがあるので、なんか空気感は似ている。しかし、3組のお笑い芸人コンビが、俳優のゲストを迎えて新作コントを作るという企画が秀逸である。
 今日は、ザブングル、サンドウィッチマン、バイきんぐの3組。そして俳優ゲストに大杉漣! 取調室のコントに大杉漣を入れるという枠のみ決まっていて、あとは自由。
 サンドウィッチマンの、「警部の取り調べの前説」として大杉漣を登場させ、お笑いを目指していたが突っ込みどころも姿勢も間違っていて、ユーキャンで資格とって、「取り調べにも笑いを」ということで採用されたというシチュエーションも秀逸で、その漣さんに対して伊達がバシバシツッコミを入れていくうちに、漣さんがどんどんアドリブを連発して、最後には富澤も素で大爆笑する件は、たけしをして「博品館劇場で1ヶ月興行できる」といわせるほどの素晴らしいコントだった。

 笑いはすっかり多様化し、江戸浅草の落語・漫才と吉本関西のボケ・ツッコミに留まらず、常に新しいものを取り入れ、増殖している。しかし、コントを作り、演じる時に、「演じる」ことを生業としている「俳優」を入れることで、これほどコント自体が一人歩きしていく、という現実がとても新鮮であった。

 お笑い芸人が役者をやったり、映画監督をやったりすることが当たり前になってきた昨今、こうした笑いに対するセンスや嗅覚を活かして、よりクリエイティブなものを作っていくということ、そしてそれを大衆のメディアで行うことは、閉塞感漂う今のお笑いの在り方に一石を投じるものではないかと思うのだ。

 ついに、映画人北野武+芸人ビートたけしが、ドッキングして本気のお笑いを作り始めたと思った。でも、石橋の立ち位置は、微妙すぎるのだが・・・なぜ、ダンカンじゃダメなんだろうか??


2012年11月11日日曜日

本の未来、エンターテイメントについて

朝日新聞出版 「橋本治という立ち止まり方」を読む。

サブタイトルは「立ち止まれ、ニッポン」。
もうこれだけで、読む価値あるでしょう。

エッセイなんだけどあまりにも含蓄が深いので、これからしばらくは、この本から考えさせられたことを、ただ書いていこうと思う。

その1 なぜ本を読むのか?

 筆者は、特に若い時に、「本を読んで居ても立ってもいられなくなった」経験を通し、本というものは「人を動かすものでありながら、簡単にこっちへ行けばよいと言う答を与えてくれないもの」であるという。人は、刺激を受けたらなんらかの反応をするもので、だから今の人は、自分の受けた刺激に対して、「ブログで語る」ことをする。
 でも、今の日本の社会では、「やるべきことを与えられている人」はとても忙しく、「やるべきことを与えられていない人」は、「なにをするのも自由なのに、なにもすることがない」という「つらい状況」にある。

 学生時代のモラトリアムに本を読め、というのは、本当に良く言われることで、その実、「どんな本を読めば良いのかわからない」ということがあって、一般的に名著と言われるものが、「今の自分には響かない」という経験から、「自分は本が読めない、本を読むことに向いていない人間ではないのか?」と僕は思っていた。仕事を初めて、それこそ、若造なのに、いっちょまえの仕事を与えられ、それなりにがんばって、その間は疲れて「本を読む暇もない」状態だった。本を読もうとすることは努力と体力が必要な行為だ。勉強も。
 大学院に入って、研究という大義名分はあるにせよ、これほどまで本を読むことが出来ることは幸せだと思う。そして、ご多分に漏れず、自分も安易に「ブログで語る」というリアクションをしている。もしかしたら、今の自分は「やるべきことを与えられない、つまらない存在」なのかもしれないなあ、と自虐的になりつつも、「本を読んで考えること」の重要性を体感して伝えていけたらと、真面目に思ってみたりもする。

その2 エンターテイメントの時代

 本が売れない出版不況。その最たるものは、「情報雑誌」がインターネットに取って代わられていることだと言う。一家に全集とテレビが揃い、基本教養は各家庭に揃った。あとは、専門的な志向を深める一部を除けば、安心してエンターテインメントに没入すれば良い。そんなエンターテインメントの時代の代表である雑誌は、文章からヴィジュアルへと軸足を移した。ドラマでは、ミステリーと愛・官能、そして、今やそれさえも「ネタ切れ」になってしまっていると。「普通の人には、それ以外にドラマがないのかな?」という筆者の疑問に対し、筆者はこのように答える。
 「エンターテインメントが肯定され、全開の時代が訪れると、もう人の根本はOKで、その在り方は保証され、人が生きていくための知性の総量はキープされているため、本来は生き方に密接しているはずのドラマは枯渇してしまう・・・」

 人は豊かさを求め、豊かさを手に入れる。モチベーションの原動力となる「欲望」は、新たな欲望にupdateされ続ける。国の借金とエネルギー枯渇という代償と引き換えに。
落語に人間の業の肯定を見出した談志は、ディキシーランドジャズの「ザッツ・ア・プレンティ」を愛した。「豊かだが、幸せでない」という思考回路を覆すものが、本や映画や音楽に内在している。もちろん、良質のエンターテインメントにも。。


2012年11月2日金曜日

野田め、かんたーびれ

民主党政権が末期を迎えている。
 衆参のねじれに加え、離党の嵐が止まらず、過半数割れ寸前。保守色を強める安部総裁は対決色を強め、石原某やら橋本某やらも第三極というなんだかよくわからない括られ方で周りが騒がしい。
 「解散、解散!」の大合唱だけが合い言葉になってて、政治家のイライラが国民にも伝播している印象もあるが、さて、解散したら誰を、何を基準に支持すれば良いのだと聞かれたら明確に答えられる人がどれほどいるのだろう?

 「人は、誰かを推すために生きている」とAKB48白熱論争は言うが、推したい誰かはどこにいるの??と思いたくもなる。まあ、AKBヲタは、握手会や劇場に通い、それなりに努力を怠っていないのかもしれないから、せめて自分も街頭演説や国会中継を見ることをやってからグダグダ言えと言われそうではあるが。。

 政情が不安定なときは、声が大きい人、決断力がある人、演説のうまい人、なんとなく魅力的に見える(モテる)人が支持を集めたりするんでしょうけど、振り返ってみると「どじょうのように泥臭く泥臭く」と所信表明していた野田佳彦という人は、これだけの大合唱にしぶとくしぶとく、政権を粘っている。前原みたいな、脇の甘い閣僚の身内の不祥事にも「のらりくらり」。一億総神経症時代において、この「鈍感力」は結構武器なのでは、今さらながら最近思うのである。
 
 第三極が選挙を見据えて連携すれば、元祖寄せ集め政党であった民主党の二の舞ではなんて声も出ているが、その民主党から元祖仕掛人の小沢一郎を追い出し、消費税増税法案を通したところは、一応の評価をすべきだろうと思う。外交、防衛では素人政権丸出しにしてるのがイタいけれど、国民があのときに選んだ政権を、「消費」するだけではなく、見届け、評価し、検証することを怠らずに、次の選挙に臨まなければならないと思う。