2016年3月21日月曜日

マイノリティに気づくこと、当事者として。

数年ぶりに臨床に復帰して、まもなく1年が経とうとしている。
またも主観的な時間感覚はとても短くなった。あっという間の1年だ。
そして、休日に1歳を超えた子供と時間を過ごしていることもその一因であろう。
一人の時間のなんと少ないことか。

ただ、最近とみに思うことだが、子育てというのはとても大変なものである。こんなこと今さら大きな声で言うことではないのだろうが、本当にその通りなのだ。
小児科医になりたての頃は、オーベンの「小児科医は早く結婚して子育てをした方が良い」という発言には、今の「女性は早く子育てをした方が良い」と同じようなおせっかいさを感じて、ちょっとイラっとしたものだった。実際にそんな「自ら子育てちゃんとしてる小児科医」という売り込み方にもイラッとしたりしていた。

 僕は昔から、小児医療に携わる人々の「ピュアなものを扱う感じ」があまり好きではなかった。性善説の押し売り、どんな子にも等しく生きる権利云々・・・理念はわかるのだが、それが次第に自分の診療において目的化していくような、そしてそのような同調圧力に耐えられない自分がいた。精神科の友人に「小児科はキレイすぎる」と言われた一言が妙に残っていた。
 しかし、小児病院での4年間を過ごす中で、そのような一種ユートピア的思想は、ある程度必要であること、そしてその空間の中にいる限りは居心地の良いものであると感じたわけである。

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僕は常々、臨床医になるということは、「病という他人の不幸を相手に仕事をすること」であると考えている。そして、臨床医のモチベーションとしてまず第一に、「病気を治すことで人々を幸福にする」ということがある。そのような崇高な理念に支えられた医療は、まずは外科と救急である。一方、僕のような神経、精神を専門にしている者は、治らない病気=慢性疾患を相手にしているわけで、「あなたの病気と、病気を持ったあなたの主治医である」ことそのものが臨床医としての存在意義となる。この時に必要な視点は、「病気であるというマイノリティ」に対する視点である。病者は、自分の病気について不安を感じる。この不安を相手に「専門家」として仕事をすること、それこそが臨床医の存在意義であると思う。
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自分自身の子育てを通じて、臨床の幅は明らかに広がった。
まず、乳児健診や一般診療で、お母さんからの質問を、自分の経験に照らして答えることができるようになったことである。「子供が夜に泣いて寝ない」という不安を、経験として「理解」することができることである。その結果、自分の中にあった「冷淡さ」が減ったと思う。育児不安や虐待に対しても、善悪ではなく理解として接することができることである。

 子育てというのは、多くの人が経験していることだと思うのに、やっぱり世の中は子育て世代には冷淡だと思う。百貨店や地下鉄は、優先エレベーターを設置すれば責任を果たしたと言えるのだろうか?東浩紀の「ショッピングモールから考える」を読んで感じたことだが、本当に百貨店は子育て世代に対してできていない、と思う。20代後半から30代が百貨店の主客層ではないからだ。消費者は百貨店のサービスを当然のこととして享受する。そこにマイノリティが存在していることなど気づきもしない。

老、病、幼。人の抱えている「不自由さ」はそれぞれだが、真に自由であるということは、翻って不自由を自覚して初めて気づくものなのかもしれない。人の不自由さを見ることはしても、同情はしても、想像はしない。そんなものなんだろう。
 とても逆説的なのだが、僕は子育てを通して、「子育て世代の社会におけるマイノリティさ」を知った。そして、そのような気づきは、小児科医としては絶対に知っていないといけないことだと思うのだ。子供の貧困、ひとり親、虐待。小児科医が子供のアドボカシーとなるためには、やはり子育てはできるものならした方が良い、ということだ。そして、そうであるならば、小児科医が子育てをできる職場環境を作っていくこともまた当然のことである。保育も、小児医療も、生産性や収益性は少ないのかもしれない。しかし、多くの人が気付いているように、今や価値はそのようには計れないものである。