2015年6月7日日曜日

お笑い芸人との相性

 NHKのLIFEを僕は結構好きで毎週見ている。笑いとしてはいかにもNHK的で、ゆるく多くの世代に見てもらえるような作りになっている。レギュラーメンバーも、濃いキャラよりも茶の間受けするようなメンバーが揃っている。子供の頃にどのお笑い芸人が好きだったか、というのは多分に家庭のしつけや道徳観などに影響されていると思うのだが、僕が中学生ぐらいだった頃、実はウッチャンナンチャン派だった。三重という土地柄、ダウンタウンが一番人気、さんまや紳助は上位、東京の笑いではとんねるずが優勢だった。学校での話題について行くために、面白くないと思いながらもオジンガーZやおかんとマーくんを見ていた。
 なぜこんな話をするかと言うと、来週のLIFEの予告編で、ちはるが出て来て「ミモーマモー」をやるからだ。これ、結構胸熱ですぜ。

 お笑い番組のいくつかのスタイルの中で、さんまのからくりTVのご長寿早押しや、ごっつええ感じのオジンガーZは、素人の老人の「天然」をいじるというものがある。一方で、LIFEで石橋杏奈や西田尚美という正当派女優がコントをやるスタイルは、正当派が本来持つ内在的なお笑いの素質を引き出している。その走りが「ミモーマモー」だったんじゃないだろうか?西田尚美は矢口史靖の「ひみつの花園」で完全なコメディーを演じている。このウッチャンナンチャンのスタイルは、志村けんのバカ殿様やドリフの8時だよ全員集合、さらには萩本欽一に遡ることができるのではないだろうか?

 さんまやダウンタウンの「毒」を好む者は内村の笑いは物足りないだろう。さんまは浅田美代子や中村玉緒を見出したが、これも「天然」をいじるものである。

 コントの中に普段見ることのできない素因を垣間見る、そこに笑いが生まれる、というのは自分に合った笑いなのだな、と改めて思う。そして、それこそがコントの存在意義の1つではないか、とも思う。ひな壇芸人全盛の今の笑いは、笑いをプロデュースするのではなく、内向きに笑いをひねり出している感じがある。さらにしゃべくり7のように、多人数でいじることにより笑いを作り出している感じがある。ボケを探してつっこむのではなく、ボケやすいように話を持って行く、というのが芸なのではないだろうか?


2015年5月5日火曜日

愛と信頼

 新しい職場に移って1ヶ月経ったので、思うところをつらつらと書いていこうと思います。というのも、異動前から「いろいろと問題のある職場だ」ということをあちこちから聞いていたのだが、それを自分の目で見て思うところがあって、整理する必要があるから。

 それで一番問題だな、と思ったのが、職種間の相互信頼関係がないことだった。ミスが起こる、お互いにお互いのせいにする。至る所で悪口を言う、好きな人だけをえり好みする。これは根深いなあ、と。
 
 僕はかなり変な人間なのか、できない人ややる気が無い人は、なぜそうなんだろう、と考える。「能力」と「やる気」では全然できない原因が違うから。あとは「経験」も。経験が無くてできないことを責めても仕方が無い。まあ、あまり向上心が無い人が多いようにも見えるのは残念だけど、それも組織としての特徴だろうとは思う。

 信じることと信じられるようになること、どちらが先なのだろう?
この問題を考える前に、愛することと愛されることは、どちらが先かを考えてみよう。
後者の問いには、僕はためらわず「愛されることが先」と答える。それは、親に愛されずに育った子に、人の愛し方がわからない子が多いという事実があることからも、明らかだ。つまり、人が誰か(や何か)を愛することができるためには、自分の意識しないところで「人に愛されている」経験が必要不可欠なのである。
 そうすると、自分に人を愛する能力が備わっている人は、愛に迷っている誰かのことを愛する責任がある、ということになる。誰かを愛して家庭を持つということは、その後生まれてくる子供を親として愛する資格を得ると同時に、責任を持つということである。
 小児医療に携わるもの(特に小児看護)は、病という危機に瀕した家族に対して看護とともに愛を与える資格を持つものである。この職業的な自覚こそ、仕事に向かう基本的な姿勢ではないだろうか?

 では、前者の問いはどうだろうか?これは案外難しい。1つ思うことがある。それは「親は子供を信頼する」ということ。これは子供が何事にも素直だからだ。素直な者は信頼される。でも、素直すぎると人に裏切られる可能性もある。これが難しい。とはいえ、本来「信頼」は見返りを求めないものであるはずで、裏切りは「信頼できなくなる決定的事由」である。だから、「裏切りにあっても人を信頼する人間であり続ける」は能力である。人に信頼されるために自覚しておいた方が良いのは「自分で自分のことが信頼できるのか?」という自問であろう。「自分が人を信頼する条件が、自分に備わっているのか」は自分の行動を規定するものである。

 お互いに不信からディスりあうことの不毛さ(非効率性)は至るところで述べられていることだろう。1つ1つ、地味に信頼関係を築くことからだ。