2012年8月29日水曜日

立川談笑独演会 in 銀座博品館劇場

「居残り左平次」
「め組の喧嘩」

歌舞伎のお題目、「め組の喧嘩」が面白かった。
落語もやっぱりライブですなあ。

2012年8月27日月曜日

文芸春秋編 夢売るふたり 西川美和の世界 を読む。




「蛇イチゴ」で西川美和がデビューしたときに、多くの評論家が書いていたように、僕も、日常の中に潜む人間の善意と悪意のぶつかり合いを正面から、しかし柔らかく描くことができる作家であると思った。アニメのリメイク全盛期に「オリジナルの脚本で勝負できる、期待の女性映画監督」という声が聞かれるのにそう時間はかからなかった。

 そして、「ゆれる」「ディアドクター」で、彼女は、その確かな実力を証明し、現代を代表する監督の一人に数えられるようになった。特に、「ミニシアター」と「シネコン」の中間を行く作品として、希有な存在となりつつあろう。

 そんな彼女の新作、「夢売るふたり」の公開を前に、彼女の世界を過去の作品の論評、本人のインタビューや糸井重里との対談を交えて回顧する1冊。

 このなかで、彼女自身が「恋愛や男女を描くのが苦手である」と述べるのは、おそらく本音ではないか。この監督の真骨頂は支配・被支配の関係性の揺さぶりにこそあるのであり、今回のテーマである結婚詐欺を通して、主人公の夫婦関係がどのようにゆれていくのか、はまた興味深い。それよりも、「ゆれる」のアイデアが彼女自身が見た夢から来ていることや、「ディアドクター」の前に、プレッシャーから心療内科を受診し、そのときに出会った「いい加減な」医師や、卵巣腫瘍の入院中に出会った点滴のヘタな研修医とのかかわりからディアドクターが生まれたことなど、作品というのはどこから生まれるのかわからないな、というエピソードがあって面白い。

 そして、斉藤環による「ディアドクター」評が、目からウロコであった。
地方における偽医者システムを支える関係性が「恋愛」であるということ。
秘密の往診⇒食事⇒診療所での秘密の待ち合わせ⇒胃カメラを通して結ばれるふたり⇒事後の語らい の件は、恋愛に似た顔を赤らめたくなる初々しさが漂うという考察。なるほど、地方僻地にて「患者一人一人の役に立ちたい」というモチベーションは、恋愛に似ているのだ。モテたいんだ。偽医者の曰くつきの事情を知り、共犯関係を結ぶ看護師と薬剤師は、さしずめ、共同体を成り立たせる家族構成員ということになろうか?
 家族に限らず、地域でも共同体でも「個人の事情と大人の事情」が介在する。
 科学者として生きるのか、高度医療を提供する専門病院で先端医師として過ごすのか、共同体の中で疑似恋愛に似た関係を続けるのか、端的に言って医師の生きる道はそのいずれかということになろうか?

 

2012年8月25日土曜日

ほんのまくらフェア 新宿紀伊国屋本店

100種類の小説の「書き出し」から、自分の気に入った、気になった本を購入する。
タイトルは伏せられている。
自分の感覚的な興味とマッチするか否か?

「本を読む」という行為は、自分の経験に照らして言うと、とても骨が折れ、体力がいることだ。毎日、通勤電車の行き帰りで少しずつ読む人もいるだろう。しかし、「読みたい」と思ったときに一気に読み進めないと、自分の中で旬じゃない本を読むことは、多大な困難を伴う。そう、本は「生もの」だ。

そうすると、ある程度まとまった時間を読書に注ぐだけの時間とエネルギーが必要だ。
それでも、どうしても本の好みは偏るもの。「気にはなるけど全然読んだことがない」という小説や物語は多いはず。

その点、書き出し=まくら だけから、読みたい本を決めることは、自分でも思いがけないほんとの出会いを与えてくれる可能性がある。もちろん、全然つまらない時間の無駄の可能性もあろう。そこは、書店員やフェアの主催者の腕の見せ所だろう。

何はともあれ、私が手にした、リルケ「マルテの手記」を読み進めることにしよう。

2012年8月19日日曜日

橋本治 その未来はどうなの? 集英社新書 を読む

「「わからない」という方法 」から10年。リーマンショック、東日本大震災、原発事故、筆者自身の大病を経た、「未来」への指南書。

 橋本治とは、膨大な知識に裏打ちされた歴史認識と、独特の視点および想像力による批評が真骨頂である。まずは、目次を眺める。
第一章 テレビの未来はどうなの?
第二章 ドラマの未来はどうなの?
第三章 出版の未来はどうなの?
第四章 シャッター商店街と結婚の未来はどうなの?
第五章 男の未来と女の未来はどうなの?
第六章 歴史の未来はどうなの?
第七章 TPP後の未来はどうなの?
第八章 経済の未来はどうなの?
第九章 民主主義の未来はどうなの?

さすが、思索は多岐にわたる。

第二章
 橋本は、まず「ドラマ」を、
 「指針のない世の中で、人が生きて行くための指針となった物語」と定義する。
昨今、「大きな物語」は崩壊し、内向きな私小説でないと芥川賞をとれない、などと言われるが、話は江戸時代にさかのぼる。

江戸時代には、「なにしてやがるんだ、テメエ」的な指針に満ちていた。明治維新により「近代的自由」を獲得した人々は、「自由=指針のない状態」を生きるようになる。この時代に、どこまでも前向きな世界観を与えたのが講談であり、その講談から派生した小説が吉川英治の「宮本武蔵」を代表とする「大衆小説」である。一方で川端康成らを代表とする「純文学」は世の中の「苦い認識」を前提とする挫折に満ちたものである。

 小林秀雄が吉川英治に文化勲章を受章するように勧めた話は面白い。

 ここまで自由が多様化し、一般化している現代においては、もはや「前向きな大衆小説」のようなドラマも「売れるパターン」を失っていると言わざるを得ない。指針を示すものも、マンガ、アイドル、スポーツまで多岐にわたってしまっている。それでも、オリンピックにこれだけ人が熱狂できるのは、オリンピック選手にある種の「講談や大衆小説的な前向きさ」が元来宿っているからだろう。サクセスストーリーは、それ自身、自由な庶民の指針となりうるのである。「パワーをもらう」という形で。

自由に慣れた人間は、「押しつけの指針」に対して、「うるせー、関係ねー」と拒絶する。人生の指針は拒絶される。ドラマは、わかりやすいナレーションにより理解されるものでは、断じてない。「面白いドラマ」を自ら求めている人は、「自らの指針を求めている」のである。他人や社会とつながっていない自由に、どれほどの意味があるのだろう?

第四章
 下町の商店街における「職住近接的自営業」と、郊外に一戸建てを買う山の手型「職住分離的勤め人」の対比。庭付き一戸建ては、生活感を隠すための城のミニチュアであるという話。経済成長期において、「生活感」は「生活臭」であり、「貧しさの象徴である」という考察。金持ちになるということは、貧乏時代の下積みを「(見)なかったことにする」ということなのかもしれない。
 自営業のおかみさんに求められる、寅さんのさくら的な「炊事・洗濯・掃除に加えて、商品の仕込み、客の応対、店の経営」までわたるマルチな仕事。
 結婚までの期間が長く、お互いに仕事を持つ「男女共同参画社会」における問題とは、独身生活が長いことによる、「もはやお互いの生活価値観ができあがってしまっている」ことによる結婚後の軋轢に起因するものもあるということ。

 生活感のある街は、時代とともに医療をうけるのと同じように再開発をうけるべきであり、生活感のある街を取り戻すことを我々は考えなければならない。

第八・九章
 「経済」「民主主義」を語る上で、筆者は一つの私見を述べる。
 それは、経済成長という世界的な幻想が、リーマンショック以後の世界経済の破綻によって揺らいでいる現在、日本は、世界経済戦争を過激化してしまった先例として、「成功したゆえに失墜した限界」を認め、敗北を認めるべきであると言う。

エネルギーは好き放題に使えない。産業の発展は公害を生む。それでも産業が発展し、ゴールを見失い加速する経済競走の暴走を止められるのは、いち早く経済の成功と破綻を経験してしまった「先進国」である日本だけだ。
 印象に残ることば------------進むだけではない、Uターンの道もあると教えられる立場にあるのは、日本だけだ。

さらに、九章では、民主主義という制度が、「ものは決められないが、独裁者の抑止力としてはたらく」ものであること、こと日本では、天皇制という、「独裁者」を生みにくい
状況であり、そのような状況では、全員が自分の権利を主張できて、主張してしまうから、これを黙らせることができないし、権利を主張する側が黙ろうとしない。
 政治がものを決められない中で、「成熟した民主主義は、民主主義であることを守ろうとする。」

そして、この閉塞感を打ち破る方法として、次のように述べる。

 「王様」になってしまった国民は、自分以外の「国民のこと」を考えなければ行けないのです。しなければいけない議論の方向を、「自分の有利になる方向」に設定しないことです。「自分の言うことは、みんなのためなることなんだろうか?」と、まず考えることです。

 「無私の精神」 吉田兼好が繰り返し述べたことであり、小林秀雄の著作にもある。

 私は、あとがきにもあるように、筆者が大病をし、自らの体(気力、体力)に不安を感じた今だからこそ、以前にも増してこのような素晴らしい文章を、ストレートに著作に著したのではないかと考えている。医師という職業の持つ「非日常的な場面」や、病気を中心とした家族や患者さんの有り様を間近で見ていて、そこから何かを悟る人は、自分の身の丈を知る=自分の万能感を捨てる、自分のための権利より、「みんなの幸せ」をごく自然に考えられるようになるのだと思う。
 
 なんだか、とても勇気づけられる一冊であった。

2012年8月15日水曜日

文化と事業仕分け

小説新潮9月号 を読む。
橋本治の「父」を読むために購入。
先月の舞城王太郎「美味しいシャワーヘッド」に続いて。
最近、新潮づいている。

この中に気になる寄稿を発見した。

加藤典洋 「海の向こうで「現代日本文学」が亡びる」あるいは、通じないことの力

 昨今の事業仕分けにより、現代日本文学の翻訳助成事業であるJLPP(Japanese Literature Publishing Project)という文化庁のプロジェクトが、突然廃止と決定された。
 この事業は、日本の優秀な小説を海外に向けて外国語に翻訳するもので、阿部和重「シンセミア」、古川日出男「ベルカ、吠えないのか」、舞城王太郎「阿修羅ガール」などがラインナップされていた。

 音楽や映画と違って、「文学を翻訳し、輸出する」ことの困難さは、想像に難くない。阿修羅ガールの語り口と自由なフォント、シンセミアの緻密な語り口、翻訳家の技量により相当違うテイストになることは間違いない。そもそも、源氏物語だって英語で読んだことのない自分が、Jブンガクにおいて海外の人と話をしたことなど皆無。しかし、日本の古典に惹かれて日本を愛してくれる人が世界中にいることは、何より日本の財産であることもまた、確かなはずだ。

 しかし、今回の事業仕分けでは、海外の図書館に所蔵されている日本文学の「編」と「冊」を混同し、あらかも日本文学が海外に既に普及しているかのように誤解し、国の予算を使うことを「無駄」と断定し、廃止となったのである。

 このケースに限らず、スパコンに代表されるように、「科学」「文化」「芸術」分野に対する事業仕分けの切り込みがすさまじいことは、この分野の専門の人間達には明らかである。普段から勤勉に研究や文化活動に打ち込むものほど、このような役人へのプレゼンは経験不足であり、声の大きい仕分け人に対して反駁することができない。

筆者は、次のように述べる。
 経済的な頭でしか考えられない人々を説得すべく、「韓国の文化戦略は日本を追い抜いていますよ」と言って、測定可能な成果を強調するのは、彼らの土俵にのり、彼らの文法にあわせ、彼らに通じる論理で語ることである。

 しかし、私たちは、やはり、文化とは、そういうものではない、文学の価値とは、そういうものではない、と主張すべきなのだろう、と私は思う。それ以外に方法はない。
 文化の価値、文学の価値は、国家の文化戦略などというレベルを超えている。
 そして、それを超えたところで、人類に、世界に、寄与し、最終的にそれぞれの国に副作用として、いくらかなりともの国益をも、与えるのである。
 文化政策は短期の経済的、文化的戦略などの観点では吐かれない。それは国の観点を越えることでようやく文化として、世界に意味あるものとなる。またそうであることで、一国にも意味ある者ものとなる。

 ここで頭に浮かぶのは、まだ興奮冷めやらぬオリンピックである。
 スポーツ文化は、この4年に1回の祭典のおかげで、事業仕分けの対象とはなっていない。スポンサー不足は叫ばれているが、成果を残し、感動を与えたものには支援の手が差し伸べられる。
 しかし、バドミントンの無気力試合、韓国のサッカー選手の政治的とも受け取れる横断幕には、本来国家を越えて存在するべきスポーツ文化の価値を貶める後味の悪さがある。
 一方で、内戦の国から参加する、など「平和への希求」を訴える選手もいる事実はあるが、21世紀型オリンピックの意義は、「国家を越えた、高潔な精神を持ったスポーツ文化の結晶」であり、それゆえ、見る人の心を打つのである。スポーツ選手に日の丸を背負わせるのは、もうやめましょう。当人たちはそんなこと思っていないと思うんだけど。
 柔道が凋落したのは、まだそういう「国の威信」をひきずっていたからのように思えるのだが。

 事業仕分けが「門外漢のにわか評論家」で占められることは問題である。
 そのためには、真の専門家が、一般に語りかける言葉を持つことが必要である。
 「声にならない声」に耳を傾けることができるのか、一人一人の意識が問われていると思う。
 

2012年8月6日月曜日

日本的であり、脱日本的であること

ロンドンオリンピック。

皆さんそれぞれいろんな感想をお持ちだと思う。予想された金メダルより少ない反面、総メダル数はすでに北京を超えている。

 これまで日本のお家芸であった柔道とマラソンが凋落し、平井コーチ率いる競泳は、金こそないものの層の厚さを見せつけた。さらに、バドミントン、卓球、フェンシング、アーチェリーと、個の力以上の団結力、チームワークにおいて日本らしさを見せて、サッカーも期待が膨らむ。

 よく言われる「オリンピックにおける国の威信」は、すなわち「金メダルの数を中心とした国の順位付け」にほかならず、そうなると、団体で金メダルを取りながら個人総合で誰一人出場しなかった中国体操男子チームに象徴される、「スペシャリスト養成工場」と化す。

 金メダルとそれ以外では、報奨金も、その後の注目のされ方も、スポンサーも違うのは当然だが、オリンピックにおける日本的な目標への過程が、圧倒的な才能ではなく、地道な努力の積み重ねによる「ようやく銅(銀)メダルに到達した」という形であることが、このメダル数の偏重になっていることは注目すべきである。
 さらにいえば、個の力を重層的に積み重ねて「団体」としてメダルを取ったということもデータには出ない部分であるが、注目すべきだ。延べ、「メダルを獲得した人の数」を算出してみれば、日本は、競泳リレーで+3×2、フェンシングで+3、体操で+4、バドミントンで+1、アーチェリーで+2、卓球で+2 計18人がメダルを獲得しているのである。サッカーがメダルを取れれば+17×2である。バレーも頑張れー。
 
 今の黄金世代は、目的への道程がストイックだと感じる。着地にこだわる内村、年齢を超えようとする室伏、2連覇の自分を超えようとし、挫折しながらもがいた結果、銀メダルを獲得した北島。「4年に1回のこの大舞台で結果を残さない限り、フェンシングの発展はないという自覚を持つべきだ」と言い切った太田。みんな、ブレていない。シンデレラストーリーをマスコミがもて囃す中、メディアに露出しながらも足許をしっかりと見据えているなでしこ。この「日本的な甘えの構造」をすでに持たずに育ってきた「脱日本的」世代が、団結力という「日本的」武器を持って世界に挑んでいるのである。

 最後まで応援しよう。