2013年4月19日金曜日

夜中に眠れなくなってしまった


 川上未映子「愛の夢とか」 読了。
 これは、ハマったなあ。
 夜中に眠れなくなってしまった。
 この小説に出会えて幸せだ。


 今年の春に、国際文芸フェスティバルというのに参加する機会があり、そのシンポジウムで川上未映子の話を聞いたのをきっかけに、彼女の考え方に興味を持ち、「ヘヴン」を読んで衝撃を受けた。まず、彼女の文章が持つ美しさ、繊細さに。そして、何よりパーソナルな問題に留まらない大きなテーマ性に。
 ほどなく、この新作短編小説が発売され、また新しい衝撃を受けた。
 
 7つのストーリーに精通しているテーマは、パーソナルな小さな世界における別れである。最近に執筆された幾つかの話には、それぞれの世界の中でエピソード的に震災の出来事が挿入されるが、決して震災を経験しての劇的な世界の変化としては描かれていない。

 ささいな日常を、繊細な感覚で生きている人にとっては、別れの後には「記憶」という厄介なものと対峙しなければならなくなる。アイスクリーム、庭の植物、お気に入りの作家、三陸のほたるいかの船、心血注いで手入れした一軒家・・・それは、時間を消費し、忘れる能力を無意識に会得した人間にとっては想像もできない世界なのかもしれない。作者は、そうした記憶を形作っているモノや景色に細やかで生き生きした感情を与えていて、昔国語の授業で習った「擬人法」という手法の存在する意味を体感させてくれる。
 
 「十三月怪談」では死別をテーマに、生の夫と、幽霊(?)となった妻のパラレルワールドが描かれるが、これはまさに「記憶」の世界である。平野啓一郎的には「死者との分人」。死後を生きる遺された者にとっての「死者との分人」が、不可避的に小さくなっていく日常を見守る妻の言葉が、徐々に感情のみが短いひらがなのみで紡がれていくのは、これぞ女流作家の美しさだ。
 「お花畑自身」では、まさに自分の庭の土と生きながらにして同化していき、「十三月怪談」では、愛した人と同化していく。死や別れが描かれているのに、美しい文体と繊細で愛情あふれる描写が、「開かれた終わり」を強く読者に印象を与える。そんな、「薄れ行く記憶の根っこにあるもの」は、言語化しがたいものであればこそ、小説のテーマとなっているのであろう。
 一緒に暮らしていれば、お互いの所作や匂いが似てくる。そんな日常をおかしみながら大事に記憶に焼き付けていく。それが、「新たな震災前」を生きる私たちなのかもしれない。

2013年4月15日月曜日

だいじょうぶ3組、自分を愛する力

乙武洋匡さんの新書「自分を愛する力」、映画「だいじょうぶ3組」を観る。

一般の方には、乙武さんの存在自体が「非日常」であり、「別世界」であろうと思う。
自分だって、病院や医療施設と言う枠の中でしか、それらの存在を知ることはない。
それでも、在宅に向けて必要なものを準備したり、キャンプなどを通して介護者の苦労や本人の日常的な困難を知ることもあり、これは貴重な体験になる。

障がい者の自叙伝や半生を振り返る話はこれまでにもあった。しかし、乙武さんのすごい所は、スポーツライターを経て、「教育」の現場へ飛び込んでいったことではないか?

 もちろん、彼自身が普通小学校で身を以て味わった挫折感や人との繋がりの尊さ、感謝の気持ちなどを次の世代に伝えたいということは、ごく自然な感情のように思う。自分に不可能な世界への憧れや、一流選手に対する興味・関心の強さが、若い時分の彼にスポーツライターという職業を選択させたのも事実だろうし、そのような彼自身の成長の延長線上に「教育」があっても何ら不思議ではない。映画の中でも、国分太一演じる白石が、「赤尾(乙武さんの役名)にしか伝えられないことがある」と言うように、彼の存在を生徒に対して「可視化」することは、生徒達にとって特別なものになることは間違いない。

 至る所で言われることだし、新書の中でも書いてあることだが、今の日本の教育は、初等教育から「画一性」を要求される。乙武自身は、「教師が子供達一人ひとりの個性を大切にできていない。それは、そもそも教師自身に個性が認められておらず、画一的であることが求められている」からだと述べる。桜の下での授業のエピソードが象徴的である。「他の組の生徒が望むから、そういう行為は慎むべき」なのである。遠足の場所もそう。
少数のために柔軟に対応するということが難しい場所が「学校」なのである。

 映画の中では、余貴美子演じる「校長」が素晴らしい。生真面目に勝手な行動を非難する安藤玉恵や田口トモロヲを軽くいなしながら、ダメなものはダメという決定を下す。
しかし、本質的には赤尾の教師としての資質を深く認めている。
 私は、今の教師がクラスの生徒に対して示すべき姿勢は、この校長のような態度ではないかと思った。

 では、どうすれば教師が「生徒」の資質を知ることができるのだろうか?これが難しい問題だと思う。道徳の教育であったり、金子みすゞの詩から自分の長所と欠点を生徒に書かせる授業だったり、というのは、根本で「自分を愛する力」を育てる授業なわけだが、一方で「先生が生徒のことを知る力」を気付かせてくれることにも繋がるのではないだろうか?理想論だが、教師は生徒のことを、まず100%信頼すべきであると思う。
 不定愁訴で外来を受診する子供を、適当に検査して「精神的なもの」と断じて、「もう来なくていいよ」という医師の姿が重なる。症状があるということは、原因はともあれ「不具合がある」ということだ。親が子供のことを理解していない、勝手な(間違った)理解をしている、学校側の姿が見えない、などのケースがあるわけだが、病院や医師、心理士だけで解決できるわけではない。

 新書の第三章で描かれるように、子の自己肯定感を育てるために、親は子に「能動的な愛を伝えていく」ことに加えて、「ありのままの子供を受け入れる」という受動的な姿勢が必要であると述べる。この眼差しこそ、まさに「障害者当事者」の素直な気持ちだと思う。
 我が子の苦しみや葛藤よりも、世間の常識や価値観をやみくもに優先してしまう。「少数派」になることを極度に恐れている。これは鋭い視点だと思う。

 「偏見」は、ものすごく恐ろしいことだ。自分の一生を左右しかねない視点だと思う。
「世間を敵に回したって、嘲笑や冷ややかな視線を浴びたって、自分だけはこの子の味方でいる」という強い覚悟を持って初めて「ありのままの子供を受け入れることができる」という。

 この感情こそが、「だいじょうぶ」なのだろう。映画の中で、乙武さんがアップで「だいじょうぶ」と呟くシーンは観る者に感動と、なんか「安心」を与えてくれるものだった。この映画は理想でしかなく、現実の教育現場はもっと複雑だ。でも、複雑だからこそ、忘れがちなシンプルな感情を心がけるようにしたいと思う。

2013年4月10日水曜日

やりたいこと、できること、やるべきこと

cakes 平野啓一郎インタビューを読む。

若い頃は、「やりたいこと」をやるべき。
そして、やりたいことをやった先に、自分の「できること」を知る。
そして、最終的に、自分が何を「やるべきか」を問うて一生を生きるのだ。

自分を振り返る。
そもそも平野啓一郎は、最も自己内省能力に優れた作家なのだと思う。

今は、大学院で「やりたいこと」をやっている。
これからの人生で「やりたいこと」を明確にすべき。
そして、自分にしか「できないこと」を見つける。

やっぱ、文学って素晴らしい!!