2012年12月26日水曜日

依存について

先日、熊谷晋一郎先生に、「自立とは依存先を増やすことである」という
講演をいただきました。independent - dependentは対立する概念ではなく、
defaultでいろいろな物に「健康的に」依存できている状態こそが、自立である。
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm

障がい者は、もともとの依存先が絶対的に少ない存在である。それを、障害と呼ぶのだ。

前回のブログにも書いたように、「依存症」にもいろいろある。
多くの精神疾患では、このような依存症状態が、社会性を大きく妨げている。

そして、この自立(independent)- 依存(dependent) の関係が、平野啓一郎の提唱する
個人(individual)-分人(dividual)にも当てはまると思う。

自殺者が後を絶たない理由として、「依存できる分人を増やせないこと」があるのではないか?そういう意味で、身体障害と精神障害はとても似ているのかもしれない。

依存するもの:酒、クスリ、ギャンブル、金儲け、異性、SEX, 買物、タバコ、食事(過食)、ダイエット、美容、最近では携帯、ネット、ゲーム、アイドル、韓流、ジャニーズ・・・

おそらく、最も健康的かつゆるい依存が、「運動」ではないか?
なぜなら、運動は健康に良い。また、運動は疲れる。だから満足感が考えられやすい。
多くの人が趣味として何かしらのスポーツや散歩を楽しむのは理にかなっている。

次は、おしゃべりであろうか?喫茶店で仲のいい人とおしゃべりを楽しむ。
ここにはコミュニケーションの難しさもあるので得意不得意はあるであろうが、お酒を通じたノミニュケーションもこの一つだろう。

 依存することそれ自体は、何らかの「快情動」と結びついてなければ健康的とは言えない。もちろん、自傷行為が「快情動」であったり、SMじゃないと感じなかったりという「倒錯」が孕む危険もあるし、特に薬物などの依存症で顕著なように、快情動を引き起こす閾値が上がってしまい、健康を害する結果となることもある。

 そうしてもう一つ、人間を行為へと突き動かす原動力は「欲望」である。動物的なリビドー。地位・名誉・お金・名声・成果・・・野心がないと決して成功はしないと考えられてもいる。
 その対極にある「諦念」。
 人生、諦めたら終わりだという考え方と、諦めざるを得ないという現実。
 「桐島、部活辞めるってよ」に描かれる“生まれながらの不平等”。

 自分に出来ることを考える。出来ないことも考える。考えるがしかし、よくわからない。迷いがないということは、幸せだ。迷いを断ち切ることが出来るのも、また。

窃盗癖(Kleptomania)について

児童相談所の相談ケースを担当するようになって、万引き少年と出会う機会が増えた。
どんな凶悪そうな奴かと身構えていると、拍子抜けするようなあどけない少年、ということが往々にしてある。

だいたいは、非行の理由を「出来心」と話すのだが、得てして行動は刺激を求めてエスカレートしていく。これは何故なのだろう?

DSM-4-TRでは、窃盗癖(Kleptomania)は、「他のどこにも分類されない衝動制御の障害」の章に分類されている。そのため、衝動性の高いADHDなどの発達障害をベースとしている可能性についても話題となっている。
 また、アルコール依存などと同様で、病的盗癖は、窃盗行為への衝動、欲望、誘惑に抵抗できないところで似ているようだが、臨床の現場では、女性に多く、アルコール依存よりも過食傾向の摂食障害に多いようである。

そう考えていくと、アディクション(嗜癖)には、アルコールや薬物などの「物質嗜癖」、恋愛やセックス、共依存、DVなどの「人間関係嗜癖」、買物依存やワーカホリックなどの「行動プロセス嗜癖」に分けられ、窃盗癖もこの「行動プロセス」への嗜癖だと言えそうだ。

治療としては、精神療法、認知行動療法に加えて、アルコール依存にも用いられるオピオイド拮抗薬「ナルトレキソン」、SSRI 、トピラマートなどが効果があるよう。

 難しいのは、他のアディクションも同様だが、物理的な隔離などの外的な力は、一時的な抑止力に過ぎないことである。ここでも自助グループの存在は重要である。本人に「逃れたいが逃れられない」という気持ちがあるのであれば、ピアサポートとのミーティングに通い続けないといけないだろう。

2012年12月19日水曜日

システムを変えるということ

 脱官僚をスローガンに掲げて、撃沈した民主党。政権に返り咲いた自民党安倍総裁も、
早くも公務員制度改革を掲げ、デフレ脱却に向けた日銀に対する金融緩和の要請を強める構えである。
 
 さて、私が最近思うのは、「本当に官僚=悪、なのか?」という素朴な疑問である。
もちろん、天下りの横行、利権の温床、という「官僚的体質」が、政財官癒着を産み、腐敗体質を作ってきたのは事実であろう。しかし、経済成長期のズブズブだった時代はもうとっくに終わっている。「今も官僚たちってそんな考え方なの?」である。

 最近、元官僚の評論家がやたらテレビに出てわ、官僚批判を繰り返している。官僚から政治家に転身する人も多い。しかし、彼らは多くが高学歴エリートである。経済・外交・教育などの専門家に違いない。その人たちが、元来性悪であるというふうには思いたくないではないか? やっぱり、官僚自体がもともと悪人であるというのではなく、官僚内部の組織の体質と、政官の関係性のねじれの中で、そのようなキャラクターが作り上げられてしまう、のではないか?と思うのである。

 たとえば、一向に改善しない縦割り行政。意思決定の仕組みが、組織の利得や力関係を前提にしているとすれば、どう考えても大衆の必要とする政策は実現されない。なんとなく、若い人たちの間で意見交換を交わすというムードさえも許されていないのではないか、と勘ぐってしまう。
 唐突だが、医師の世界でも、科の垣根を越える診療というのが難しいと感じることがある。自分の領域の病気の検査をして、異常がなければ「ウチの病気ではない」と言って、他に回す。医療なんて万能じゃないんだから、原因がわからないことなんていっぱいある。そういう前提に立ちつつ、どこまで患者のために関わるか(関わるべきでないか、という問題も含まれる)を常に客観的に判断することが必要である。
 そういう中で、総合内科や家庭医診療、総合救急、緩和ケアなど、垣根を越えた1患者をトータルで診ていくという領域が浸透してきて発展してきているという現実は、これまでの組織の在り方では立ちいかないシステムを変えていこうとするものである。
 
 おそらく官僚も、また、政治家と官僚の関係も、その関係性のシステムを変える時が来ているのだと思う。そして内部ではもう変わってきていると期待したい。

 しかし、そこでネックになるのが、例の?東大話法である。安富歩が書いている「東大話法」は、極端な書き方でいろいろと賛否両論であると思うが、多くのエリートが、自己実現の過程で多かれ少なかれ内在しがちな考え方は、やっぱり「柔軟なコミュニケーション」を阻害するものでしかないと思う。ニーチェは、大衆は愚かであり、語りかけても無駄であると悟ったわけだが、そこで思考停止しても仕方がないではないか?

 柔軟なコミュニケーションの中で、ゆるやかにつながりながら、新しいシステムを作っていくこと。一人一人が考えるべきはこれだと思うのだが。

2012年12月17日月曜日

総選挙・雑感

終わってみれば、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という結果だった総選挙。大勝の感想を聞かれた自民党幹部は、こぞって、「自民党が信任を得たわけではなく、民主党がひどすぎた」と優等生な発言を繰り返した。
 安倍総裁も、選挙前の攻戦的で挑発的な発言から一転、慎重に言葉を選んで、まさに「保守」。野党の顔から与党の顔へのダイナミックな変化を1日にして見た。
 
 第三極も離合集散で、今回の投票率の低さは、結局有権者が第三極も信任するまでは至らず、「民主にNo」ということだけがはっきりとした結果として残ったという。しかし、首班指名を誰にするか、で既にもめているような、「言うだけ番長」ツートップも、そのタレント性は絶大で、50議席を越えてもう少しで第二党という結果は、「タレント性より実行力、政策」と言われる日本でも、まだまだタレント性が通用することを皮肉にも示した結果であった。それは、「タレント性が持たせる期待」と同様、「タレント性に対する強固な嫌悪」も表裏一体であり、一方の第三極「未来の党」が、結局は嘉田さんの無害さよりも小沢一郎への嫌悪感によって、脱原発派の声を集約できなかったことからも読み取れる。

 私は執念深い人間なので、小泉郵政選挙ぐらいから、一貫して民主党を支持している。
地元が岡田克也のお膝元であるというのもあるのだが、小泉・安倍・麻生に通じる「生理的嫌悪感」が今も自分の中にひっかかりとしてある。国民が、自民党にNoを突きつけた3年前の衆議院選挙、からの3年間の振り返りが、十分でないように思えてならないのである。
 今回の民意には程遠いので、無視してもらっていいんだけど、3年前の民主党のマニフェストは、小沢-鳩山ラインの作ったものだ。だから、民主党のこの3年を振り返る上で、小沢-鳩山時代と、菅-野田時代は分けて考えなければならない。
 野田佳彦が、財務省の言いなりになって、マニフェストの公約と正反対の消費税増税に踏み切ったことを批判する声も多い。しかし、それは、「3党合意」に基づくものであり、自民党と民主党の差異の根拠にはならない。社会保障に関しては、まだまだ議論が不十分であり、自民が民主に勝っているとは思えない。復興に関する問題は、自民党が民主党よりもスピーディーに遂行できるという保証はない。現時点では、自民と民主の大きな差異と言うのは、「憲法改正と国防、日米安全保障と対中外交」に尽きると思っている。つまり、昔石原某が言っていた「Noと言えるニッポン、強い日本を、取り戻す」である。
 これを日本国民に潜む、潜在的なナショナリズムと考えるのは早計だと思う。私はむしろ、「日本は、国防や外交に関する主体性をこれまで持ち得たことがないのではないか」という、思想としての未熟性を指摘しておきたい。もちろん、戦前のような思想教育をしろと言うわけではない。ただ、平和憲法というものを与えられたことによって、「考えないで済んでいた」というだけじゃないか、と思うのである。

 選挙争点としては、自民党や維新は、うまくこの辺をはぐらかして議席を得た。中韓は、日本の右傾化を一斉に報道するが、欧米や日本国内では、安倍総裁の、過去首相時の、特に対中外交を評価する声も多いので、そこまで懸念はされていないようだ。しかし、ここ数年内に、必ず、「憲法改正の是非を問う」選挙が行われることは間違いないだろう。

 国民は、自分たちの民意に対する振り返りを、きちんとすべきだと思う。何故、3年前に民主党を選んだのか、自民党にNoと言ったのか、よりましな政党はどこなのか。自分の1票で何も変わらない、と嘆くより先に、自分の中で政局を冷静に眺めるということをみんなすべきだ。

 そしてもう少し踏み込んで考えるならば、なぜ「不況なのか」ということじゃないかと思う。この不況は、日本だけじゃなくて世界の問題として捉えるべきだろう。投機マネーや格差が、不況を誘発しているのはあると思うが、もっと根本的には、軍事費の拡大(特にアメリカ)と、豊かさがあるんだと僕は思う。豊かさとは、「もうだいたいの必需品は手に入る。だから新しいものや良いものを作ってもそんなには売れないし儲からない」ということだ。経済の原則は物々交換である。他国にないものを輸出し、自国にないものを輸入する。豊かになれば経済が停滞するのは当たり前である。機械化を進めて人件費をどんどん削っていったら、人はどうやって働いたら良いんだろう??

 民主党はおそらく細野豪志が、代表になるだろう。純化路線が、党としての成熟につながるのか?どこに自民党の差異を作っていけるのか?中道の価値を見出せるか?
 

2012年12月14日金曜日

橋本治 「二十世紀」を読むー1

 混迷の21世紀を迎えて、バブルはとっくに崩壊し、世界的に経済危機が叫ばれる。日本ではモノは作れど売れず、原発の安全神話がもろくも崩れ去り、本当に豊かな国土は失われようとしている。一人勝ちしていた日本のつまづきから近隣諸国は攻勢を強め、日本にネオ右翼が台頭し、改憲や国防軍の議論がさかんになされる。

 「正しい方向性」が見失われた今、毎度繰り返される消化不良な党首討論で、我々は国の未来像を描けない。答えが見つからない中、選挙は3日後に迫っている。今出来ること・・・は「歴史から何を学ぶか?」であると思った。

 以前買ったまま読んでいなかった、橋本治「二十世紀」を読む。
 筆者曰く、「きわめて個人的な」百年記。この著作の議論をまとめるだけでも、もはや時間が足りないが、非常に多くの機知に富んだ視点を与えてくれる。

まずは総論。
 「20世紀」は2つの世界大戦と冷戦の時代である。ここで筆者はまず、外交手段の一つとしていた19世紀的な「ルール・美学のある戦争」と、大国が軍隊を背景にして「経済的侵略=商売」をおこなったことの意味を問う。そして、その経済的侵略の背景にあるのは、貿易の背後に、「必要」とともにある人間の「欲望」であるという。
 19世紀的原則では、貿易戦争での勝者になることは、世界一の侵略者になることであり、世界の覇者は「世界一の金持ち国」であることであった。ここですでに、筆者は結論を出してしまう。。
 「日本の金融システムの危機は、18世紀の産業革命に由来する必然の結果だ」
すなわち、産業革命による機械化により、大量生産の技術が可能となり、人間に作り過ぎという事態を与えた。近代化は、多すぎるゴミの山を生む。資本主義、金儲け競走は、「便利」というものをもたらしてはくれたが、金儲けは更なる金儲けを目指すことにしかならない。投資という行為自体が、商品の大量生産を誘導し、バブルははじけ、投資先がもうなく、「新たにモノを作ることがもう不必要になっていた」。
 高級ブランド品さえも買いあさってしまった日本人は、もはやそのような「いらないもの」さえもいらなくなってしまった。
 
 結論は、「必要なものは作るが、いらないものは作らない」産業革命以前の工場制手工業に戻るべきだ、である。人間から働くことを奪ったらロクなことにならず、働くことしか能がなかった人が働くをうばわれた結果が犯罪の多発である。だから機械化をやめて、効率が悪くても働くべきである。である。

 確かに、不況になるとすぐに「人件費を削減」「公務員の削減」・・・というが、新卒採用も減っているのに、さらに機械化を促進していいのか、と思ってはいた。障がい者の就労、彼らは勤勉だよ。たとえ小さな、決められた単純作業の仕事だけでも、黙々と勤勉にこなすんだ。福祉・医療もそう。農業だってそうだろう。淡々と毎日の仕事をこなすこと、だよな。カンフル剤はもういらないし、新製品ももういらないんだな。「質を保つ」こと、「メンテナンスをしっかりやること」。モノ作りや箱もの作る人は考えて欲しい。

2012年12月11日火曜日

ダ・ヴィンチ 若林正恭×又吉直樹×星野源

 学生時代非モテ系(別名モテキ系、桐島系)男子による鼎談。
ポストバブル世代のリアリスト達が大事にしてきたもの、大事にしているもの、欲との葛藤、身の程、他人への羨望などを語る。

 基本的には、自意識過剰なネガティブシンキング=ひねくれモノ。
 しかし、この3人の中でも微妙にトーンが異なるのが面白い。

 若林は、アメトークの読書芸人の後に、自分のお気に入りの本を送りつけるファンのことを、やや鬱陶しそうに話す。又吉は、「もらった盆栽の本はすでに持っているものだった。」と笑いにする。星野源は、下ネタを放ち、今は昔よりはモテると少し余裕をかます。
 
 読んでる本で言うと、若林が平野啓一郎好きで、最近世界や日本の歴史の教科書?を読み返して、「人はずっと戦争をしている」ことと「偉くなると、足下を掬われる」ことを学んだという話。僕も最近、「世の中の真理に近いことを知るのは、きっと歴史を検証することが一番近道に違いない」という確信があって、あとはその解釈が正しそうな書物がどうなのか、ということに悩んでいるのだが、若林がどういう物を読んでいるのかは興味があったりする。僕は、小熊栄二の「1968」と、橋本治の「20世紀」を読んでいるわけですが・・・

 結局、(日本の)未来をどう考えるかって、過去をどう検証するか、からしか生まれないよ、多分。

2012年12月4日火曜日

私とは何か 平野啓一郎 を読む

 先週末に、新刊「空白を満たしなさい」とともに、購入。
平野啓一郎は、処女作「日蝕」で芥川賞を取った時のインパクトが強い。
当時大学生だった僕は、書店で本を手にして全く読み進められずに終わったことを憶えている。そんな彼が、個人に対して「分人」という概念を提唱し、前述の新作ではモーニングでの連載を行ったということで、改めてチャレンジしてみた。

 小説の感想に関してはいずれまた記したいと思っているが、この200ページ弱の新書も、彼の著作を通して描いてきたことを語りながら、「分人」の誕生と分人主義によるさまざまな考察を進める。

 大震災と原発事故の後、中沢新一の「日本の大転換」の中で一神教の弊害と資本主義、原発神話に関しての考察を目にして以来、西洋的なキリスト教思想が日本においてどのような位置づけになっているのか気になっていた。
 平野は、「個人(indivisual) 」は、明治以後に西洋から輸入された言葉であり、一神教をベーストした西洋文化に独特のものであると述べる。西洋の恋愛観も、それゆえ、お互いを「唯一神」とするような個人を単位としたものである。
 それに対して、自分と他人の関係の中で継続的に、絶えず変化し続ける「分人」の総体が「個」であり、「本当の自分」というものは一つではない、と述べる。これは、全ての自然やモノに神が宿る、多神教的な考え方なんだろうと思う。

「自分か世界か、どちらかを愛する気持ちがあれば、生きていける」
  数ある自分の分人のうち、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。
 そして、その足場となる分人は、生きた人との関係性限らず、詩でも小説でも、音楽でもかまわないという。文化というのは人間に、ポジティブな分人を与え得る装置といえるのではないか?そして、それこそが自分を肯定するための入り口だと言う。

 分人主義的な考え方によって、ネガティブシンキングをポジティブシンキングに変えられるのか?という疑問はある。好きな分人を足場に出来ない人は、何から始めれば良いのか??
 筆者の言葉を自分なりに解釈すると、「自分を愛するために他者の存在が不可欠であるという逆説」を知り、他人と関わりを通して好きな分人が増えるように努めること、となろうか?
 さらに4章で、愛情とは継続性を期待されるものであり、持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のおかげで、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さであると述べる。
 
 分人の考え方は、個人(個性)とは相手を通した自分の総体みたいなものだから、その関係性は常に双方向である。だから、逆に自分が念ずれば、とか、自分がこうすれば、という主体性だけではどうしようもないことが多いと思う。はっきりいって思い込みが強くてコミュニケーションが苦手な人には、結構辛い概念だとも思う。嫉妬・ストーカー・自己卑下・・・
 でも、逆に、このような考え方をベースに「双方向なのだから、相手のことを思いやらないといけない。それは自分に返ってくるものだから」とみんなが思うことができれば、と理想論を語ってみる。。。

最も面白かったのは、死者との分人についての件。訃報の悲しみが遅れてやってくるのは、相手との分人が、関係を必要とする段階で初めて不在を痛感する。大江健三郎の「文章を書くことで死んだ友人を自分の中に取り込んでしまう」ということ。故人について語る資格がある人は、故人との分人が消滅しきれずに、語る言葉の半分が故人のものであるということ。。死んだ後も、人は、他者の分人を通してこの世界に残り続ける、という死生観。これは、とてもよい言葉だと思う。年齢とともに、人間は死者との分人を否応なく抱え込んでゆくのだ。仏壇に語りかけるのは、時々その死者との分人を生きてみること。

SNSの時代、共同体の解体が叫ばれる時代、やたらと絆という言葉が一人歩きする時代。
同世代を生きている作者をこれからもフォローしていこうと思う。






http://www.amazon.co.jp/私とは何か――「個人」から「分人」へ-講談社現代新書-平野-啓一郎/dp/4062881721

2012年12月3日月曜日

地域における発達・在宅支援

日本小児科学会誌11月号 第115回日本小児科学会学術集会教育講演を読む。

小児科学会、全然行ってない・・・

山口県下関市で開業医をやられている金原洋治先生の「どうしたらいい?地域における発達・在宅支援」を読む。

新生児医療から療育の場作り活動を行っている先生が、療育の支援に加え、家族支援を含めた地域生活支援という視点から、「障害児デイケアハウス」「こころの相談室」「重症心身障害児者地域生活支援センター」をクリニック内に作った実体験に基づくもの。

 4階建てのクリニックは、1階が小児科クリニック、2階が「発達支援室ベースキャンプ」とボランティアによる「キッズドリーム」、3、4階に重症心身障害児者地域生活支援センターを併設している。子育て中の女性医師の協力を得て、小児科医2名により、精神科・リハビリ科も標榜して診療を行っていると言う。

 私も以前から、新生児医療の進歩に伴い、地域で療育を必要とする子供達が増えていて、今後ますます、療育や在宅支援の受け皿が必要になるだろうということを頭では理解しているのだが、「それで、実際、何ができるの?」ということを感じていた。特に、こころの問題や心理による療育は、診療報酬の面からも現実的に外来・クリニックでは難しいだろうと言う先入観を持っていた。

 かねはら小児科では、
1)在宅医療支援  
   重症例は救急医療の場の確保が重要なので、多くは総合病院にも受診している。クリニックと総合病院が、在宅療養指導管理料を分担したり、訪問看護・リハの指示書を書いたり、重症児の往診・訪問診療や通所施設への送迎を一部行ったりしているという。

2) 発達相談
 相談外来を予約制(週3回)行っているという。予約待ちが2ヶ月。新患は年間250名。発達障害児(者)に支援室ベースキャンプを利用してもらい、PT/OTは、リハビリ科として保険請求を行っている。臨床心理士は6名の非常勤者がおり、年間のべ2000件!の相談があるという。臨床心理士の人件費確保のために、精神科を標榜して通院在宅精神療法を保険請求している。自立支援医療の申請も積極的に勧めている。

3) 重症心身障害者地域生活支援センターの活動
 
を行っているという。

一般のクリニックで出来る発達支援・地域生活支援として、診療報酬の算定が重要である。
・小児特定疾患カウンセリング料 月2回まで 2年間限定
   気分障害、神経症、ストレス関連障害、身体表厳正障害、心理発達障害(自閉症)、行動・情緒の障害(ADHDなど)
・心身医学療法
  心身症、カウンセリング・行動療法(30分以上)
・通院・在宅精神療法(週1回、精神科標榜)
  統合失調症、躁鬱病、神経症、真因反応、児童思春期精神疾患など

・在宅療養管理指導料
・在宅時医学総合管理料(届け出が必要)

・障害児(者)リハビリテーション料
  1単位20分、1日6単位まで 
  施設基準:
8割以上が対象患者であること、
常勤職員でPT/OT 2名以上または、PT/OT1名+看護士1名または、ST 1名以上
専用施設 45m2 以上 
機械器具(マット、姿勢矯正用鏡、車椅子測定要器具)
   
・往診時 往診料


市町村の療育施設が、発達障害の疑いの子で溢れ返って、十分に機能していない現状で、こうしたクリニックレベルで発達・在宅支援が進んでいくことは歓迎すべきことであると思う。このようなノウハウやネットワークの蓄積・普及によって、より療育のレベルが上がっていくことを期待している。