2015年5月5日火曜日

愛と信頼

 新しい職場に移って1ヶ月経ったので、思うところをつらつらと書いていこうと思います。というのも、異動前から「いろいろと問題のある職場だ」ということをあちこちから聞いていたのだが、それを自分の目で見て思うところがあって、整理する必要があるから。

 それで一番問題だな、と思ったのが、職種間の相互信頼関係がないことだった。ミスが起こる、お互いにお互いのせいにする。至る所で悪口を言う、好きな人だけをえり好みする。これは根深いなあ、と。
 
 僕はかなり変な人間なのか、できない人ややる気が無い人は、なぜそうなんだろう、と考える。「能力」と「やる気」では全然できない原因が違うから。あとは「経験」も。経験が無くてできないことを責めても仕方が無い。まあ、あまり向上心が無い人が多いようにも見えるのは残念だけど、それも組織としての特徴だろうとは思う。

 信じることと信じられるようになること、どちらが先なのだろう?
この問題を考える前に、愛することと愛されることは、どちらが先かを考えてみよう。
後者の問いには、僕はためらわず「愛されることが先」と答える。それは、親に愛されずに育った子に、人の愛し方がわからない子が多いという事実があることからも、明らかだ。つまり、人が誰か(や何か)を愛することができるためには、自分の意識しないところで「人に愛されている」経験が必要不可欠なのである。
 そうすると、自分に人を愛する能力が備わっている人は、愛に迷っている誰かのことを愛する責任がある、ということになる。誰かを愛して家庭を持つということは、その後生まれてくる子供を親として愛する資格を得ると同時に、責任を持つということである。
 小児医療に携わるもの(特に小児看護)は、病という危機に瀕した家族に対して看護とともに愛を与える資格を持つものである。この職業的な自覚こそ、仕事に向かう基本的な姿勢ではないだろうか?

 では、前者の問いはどうだろうか?これは案外難しい。1つ思うことがある。それは「親は子供を信頼する」ということ。これは子供が何事にも素直だからだ。素直な者は信頼される。でも、素直すぎると人に裏切られる可能性もある。これが難しい。とはいえ、本来「信頼」は見返りを求めないものであるはずで、裏切りは「信頼できなくなる決定的事由」である。だから、「裏切りにあっても人を信頼する人間であり続ける」は能力である。人に信頼されるために自覚しておいた方が良いのは「自分で自分のことが信頼できるのか?」という自問であろう。「自分が人を信頼する条件が、自分に備わっているのか」は自分の行動を規定するものである。

 お互いに不信からディスりあうことの不毛さ(非効率性)は至るところで述べられていることだろう。1つ1つ、地味に信頼関係を築くことからだ。