2012年7月9日月曜日

笑いについて

「考える人」8月号 笑いの達人を読む。
サルはsocialな笑いを持つのかというのは、簡単なようでいまだ結論が出ていない問題である。笑いの発達変遷にしても、新生児微笑から、あやし笑い、二項関係から三項関係への笑いへと進化し、進化しすぎた脳にとっては、嘲笑、苦笑、愛想笑いなんてモノも出てくる。「笑いは何よりの特効薬」なんてのもあって笑う事のプラス面ばかりが強調されるが、笑いが快情動を引き起こすとして、果たしてギャンブルやお酒の快情動と何が違うのだろうか??

奇しくも、この特集号の中で、養老孟司と立川談笑が同じことを言っている。
「笑いは緊張と緩和の間に起こる」

これは、桂枝雀の言葉だ。要は、笑いは「いないいないばあ」である。なるほど、どれだけ笑いが進化しようとも、原点は二項関係のsocial smileの原点であると。

談笑師匠はもう一歩踏み込む。
「今のテレビのお笑いは、いないいないばあに近い。見た目や一発ギャグのツッコミが多いから、ネタ自体が短く、賞味期限も短い。その点、落語は、人間っていいよねという人間ドラマが含まれ、根本に人生への許しや生きる快感をもたらす安心感が背後にある。本質的には落語は銭湯と同じだという。


 笑いの本質は、「今日も一日お疲れさま」という疲労の緩和にある。疲労が深いほど、安心感も深くなる。


 なるほど、だから寄席は銭湯なのだ。立川談志は「銭湯は裏切らない」といっていたのは、そういうことか?

そう考えると、労働の後の一杯も、この笑いと同じような意味を持つのかもしれないな。だから酒場はすばらしいのだな。
「ほっこりするような、じわじわくる笑い」は、快情動というよりも安心感や安らぎに近いのかもしれないな。笑いが、場を共有している人たちの「これまでに共有してきたもの、空気」により意味が変わるのは、どちらかというと「欲に近い快情動」よりも、「共感に近い空気感」として、より高次に意味を持つからではないのかな?

逆に言うと、「場や空気を共有し得ない状況」での笑いは、時に人を深く傷づける凶器にもなり得るという事か?大津のイジメの問題しかり。人が自分に向かって笑いかけてくる視線を(いやでも)想像してしまう事ほど辛い事はない。それでも人は承認を得たい。
「君は学校になんて行かなくて良い」という承認を、幾ばくかの責任を持ちながら伝えられる人がどれほどいるのであろうか?

被災地を思いやれる人間は、近くの「困ってるひと」に対して、どれほどの想像力を働かせる事ができるのか、そして、つまるところ、我々は困ってるひとに何をできるのであろうか?

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