2012年7月12日木曜日

新潮8月号 山下敦弘×西村賢太 対談 を読む

西村賢太が、ブログで「苦役列車」の映画批判をした事が話題になって、この対談。
タイミングとしても、これは見ないわけにいかないと購入。

最初は、和気藹々と、小説と映画という手法の違いをお互いに理解した上で、特にディテールのセリフや小道具、チョイ役の役者の話などで盛り上がる。

しかし、対談の後半、私小説にこだわる西村賢太の、「映画そのものの作り方の姿勢」に対する文句ともとれる強い批判が山下に投げかけられるところは、読んでいて緊迫感すら覚えた。

西村は、山下の映画に対して、「原作者に遠慮をしたのか、貫多=過激な寅さん、をもっとハチャメチャにしても良かったのでは」と言う。
山下は、「貫多=過激で小心者の寅さん」として捉える。西村曰く、「私小説は、実際に体験した事から書くという制約の中でしか物語を作る事ができない。一方、映画には、たとえノンフィクションの原作であっても、一つの作り物であるというで、“いかにまとまりのある虚構”にまとめるかという作業である。その点から、映画と言う作品を見る上でのたっている場所が違うため、不満のようなものがどうしても残ってしまう。」

それに対して、山下は「小説は一人で作る世界なのに対して、映画は大勢に作るものであり、写真や映像、役者という生身の人間、その演技、その中にある嘘であっても芝居としてリアルかどうか、という作り方そのものの過程が違う。そういう意味では、私小説に原作を得た今回は、演出に無理をしなくて良く、丹精に貫多を作り上げる事ができた」と自負する。
そのうえで、当初好意的だった西村の態度の豹変を「不可解」と咎める。

それに対する西村の一言がすごい。
「原作者は、見てつまらなかった映画をどこまでも褒めなきゃいけないとでもいうんですか?」
(中略)
「小説書きは・・・僕なんかは、私小説と言う事で批判ばっかされて叩かれ続けてるから、免疫ができていますが。どうですか、また懲りずに私小説の映画化に挑戦するお気持ちはありますか?」

なんという怨念。まあ、その辺の理由は、山下のこの映画の作る視点によるところが大きいだろう。次の一文。

山下「北町貫多って見ていて面白いし、魅力的なんですよ。一方で、相手役の日下部というキャラクターがいて、僕はどちらかというと日下部の側から貫多を見ていたと言う気がします。・・・(中略) 貫多はダメ人間という枠では収まらない気がします。もっと巧い言葉はないのでしょうか?」

西村「青春の落伍者、と言ってほしいですな。まっとうな青春からは落ちこぼれたけど、まだ人生は終わっていない。どこかで必ず一矢報いてやろう。」


こりゃ、山下監督では荷が重かったな?という感じ。園子温か、若松孝二か?
確かに山下敦弘は、向井康介あってのものだし、いまおかしんじにしても、エロはかけても、下流社会の男の執念ってキャラじゃないしなあ。

「どぶねずみみたいに〜 美しくなりたい」(リンダリンダリンダ)を思い出した。
ブルーハーツを女子高生にやらせる監督じゃ、うまが合わないのは当たり前かもなあ?





0 件のコメント:

コメントを投稿