2012年8月15日水曜日

文化と事業仕分け

小説新潮9月号 を読む。
橋本治の「父」を読むために購入。
先月の舞城王太郎「美味しいシャワーヘッド」に続いて。
最近、新潮づいている。

この中に気になる寄稿を発見した。

加藤典洋 「海の向こうで「現代日本文学」が亡びる」あるいは、通じないことの力

 昨今の事業仕分けにより、現代日本文学の翻訳助成事業であるJLPP(Japanese Literature Publishing Project)という文化庁のプロジェクトが、突然廃止と決定された。
 この事業は、日本の優秀な小説を海外に向けて外国語に翻訳するもので、阿部和重「シンセミア」、古川日出男「ベルカ、吠えないのか」、舞城王太郎「阿修羅ガール」などがラインナップされていた。

 音楽や映画と違って、「文学を翻訳し、輸出する」ことの困難さは、想像に難くない。阿修羅ガールの語り口と自由なフォント、シンセミアの緻密な語り口、翻訳家の技量により相当違うテイストになることは間違いない。そもそも、源氏物語だって英語で読んだことのない自分が、Jブンガクにおいて海外の人と話をしたことなど皆無。しかし、日本の古典に惹かれて日本を愛してくれる人が世界中にいることは、何より日本の財産であることもまた、確かなはずだ。

 しかし、今回の事業仕分けでは、海外の図書館に所蔵されている日本文学の「編」と「冊」を混同し、あらかも日本文学が海外に既に普及しているかのように誤解し、国の予算を使うことを「無駄」と断定し、廃止となったのである。

 このケースに限らず、スパコンに代表されるように、「科学」「文化」「芸術」分野に対する事業仕分けの切り込みがすさまじいことは、この分野の専門の人間達には明らかである。普段から勤勉に研究や文化活動に打ち込むものほど、このような役人へのプレゼンは経験不足であり、声の大きい仕分け人に対して反駁することができない。

筆者は、次のように述べる。
 経済的な頭でしか考えられない人々を説得すべく、「韓国の文化戦略は日本を追い抜いていますよ」と言って、測定可能な成果を強調するのは、彼らの土俵にのり、彼らの文法にあわせ、彼らに通じる論理で語ることである。

 しかし、私たちは、やはり、文化とは、そういうものではない、文学の価値とは、そういうものではない、と主張すべきなのだろう、と私は思う。それ以外に方法はない。
 文化の価値、文学の価値は、国家の文化戦略などというレベルを超えている。
 そして、それを超えたところで、人類に、世界に、寄与し、最終的にそれぞれの国に副作用として、いくらかなりともの国益をも、与えるのである。
 文化政策は短期の経済的、文化的戦略などの観点では吐かれない。それは国の観点を越えることでようやく文化として、世界に意味あるものとなる。またそうであることで、一国にも意味ある者ものとなる。

 ここで頭に浮かぶのは、まだ興奮冷めやらぬオリンピックである。
 スポーツ文化は、この4年に1回の祭典のおかげで、事業仕分けの対象とはなっていない。スポンサー不足は叫ばれているが、成果を残し、感動を与えたものには支援の手が差し伸べられる。
 しかし、バドミントンの無気力試合、韓国のサッカー選手の政治的とも受け取れる横断幕には、本来国家を越えて存在するべきスポーツ文化の価値を貶める後味の悪さがある。
 一方で、内戦の国から参加する、など「平和への希求」を訴える選手もいる事実はあるが、21世紀型オリンピックの意義は、「国家を越えた、高潔な精神を持ったスポーツ文化の結晶」であり、それゆえ、見る人の心を打つのである。スポーツ選手に日の丸を背負わせるのは、もうやめましょう。当人たちはそんなこと思っていないと思うんだけど。
 柔道が凋落したのは、まだそういう「国の威信」をひきずっていたからのように思えるのだが。

 事業仕分けが「門外漢のにわか評論家」で占められることは問題である。
 そのためには、真の専門家が、一般に語りかける言葉を持つことが必要である。
 「声にならない声」に耳を傾けることができるのか、一人一人の意識が問われていると思う。
 

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