2012年11月11日日曜日

本の未来、エンターテイメントについて

朝日新聞出版 「橋本治という立ち止まり方」を読む。

サブタイトルは「立ち止まれ、ニッポン」。
もうこれだけで、読む価値あるでしょう。

エッセイなんだけどあまりにも含蓄が深いので、これからしばらくは、この本から考えさせられたことを、ただ書いていこうと思う。

その1 なぜ本を読むのか?

 筆者は、特に若い時に、「本を読んで居ても立ってもいられなくなった」経験を通し、本というものは「人を動かすものでありながら、簡単にこっちへ行けばよいと言う答を与えてくれないもの」であるという。人は、刺激を受けたらなんらかの反応をするもので、だから今の人は、自分の受けた刺激に対して、「ブログで語る」ことをする。
 でも、今の日本の社会では、「やるべきことを与えられている人」はとても忙しく、「やるべきことを与えられていない人」は、「なにをするのも自由なのに、なにもすることがない」という「つらい状況」にある。

 学生時代のモラトリアムに本を読め、というのは、本当に良く言われることで、その実、「どんな本を読めば良いのかわからない」ということがあって、一般的に名著と言われるものが、「今の自分には響かない」という経験から、「自分は本が読めない、本を読むことに向いていない人間ではないのか?」と僕は思っていた。仕事を初めて、それこそ、若造なのに、いっちょまえの仕事を与えられ、それなりにがんばって、その間は疲れて「本を読む暇もない」状態だった。本を読もうとすることは努力と体力が必要な行為だ。勉強も。
 大学院に入って、研究という大義名分はあるにせよ、これほどまで本を読むことが出来ることは幸せだと思う。そして、ご多分に漏れず、自分も安易に「ブログで語る」というリアクションをしている。もしかしたら、今の自分は「やるべきことを与えられない、つまらない存在」なのかもしれないなあ、と自虐的になりつつも、「本を読んで考えること」の重要性を体感して伝えていけたらと、真面目に思ってみたりもする。

その2 エンターテイメントの時代

 本が売れない出版不況。その最たるものは、「情報雑誌」がインターネットに取って代わられていることだと言う。一家に全集とテレビが揃い、基本教養は各家庭に揃った。あとは、専門的な志向を深める一部を除けば、安心してエンターテインメントに没入すれば良い。そんなエンターテインメントの時代の代表である雑誌は、文章からヴィジュアルへと軸足を移した。ドラマでは、ミステリーと愛・官能、そして、今やそれさえも「ネタ切れ」になってしまっていると。「普通の人には、それ以外にドラマがないのかな?」という筆者の疑問に対し、筆者はこのように答える。
 「エンターテインメントが肯定され、全開の時代が訪れると、もう人の根本はOKで、その在り方は保証され、人が生きていくための知性の総量はキープされているため、本来は生き方に密接しているはずのドラマは枯渇してしまう・・・」

 人は豊かさを求め、豊かさを手に入れる。モチベーションの原動力となる「欲望」は、新たな欲望にupdateされ続ける。国の借金とエネルギー枯渇という代償と引き換えに。
落語に人間の業の肯定を見出した談志は、ディキシーランドジャズの「ザッツ・ア・プレンティ」を愛した。「豊かだが、幸せでない」という思考回路を覆すものが、本や映画や音楽に内在している。もちろん、良質のエンターテインメントにも。。


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