2013年1月28日月曜日

朝井リョウ 「何者」

最年少直木賞受賞の上記作品を読了。

前作、「桐島部活辞めるってよ」では、ある事件をきっかけに、スクールカースト呼ばれる高校生の序列や友情に生まれる不協和音や化学変化を描いた秀作であった。吉田大八により映画化された作品は、今年度のキネマ旬報の2位であった。

そして本作は、現在の大学生の就活を通した微妙な人間関係をまたしても描く。

以下、ネタバレ。

「ラスト30ページの衝撃を見逃すな」みたいなキャッチコピーが独り歩きしたので、ミステリーみたいな変な先入観を持って読んでしまったが、いたって等身大な青春小説だと思う。対比として浮かんだのは、伊坂幸太郎の「砂漠」である。俯瞰的な主人公の視線から大学生活が描かれるという点で似ている。(もっとも、砂漠はもう読んでからだいぶたつので記憶があいまい)

しかし、朝井リョウは、妙に意地悪で冷めた目だ。少なくとも、小説の登場人物に自分を仮託したり、感情移入したりはしない。

現在を生きる若者に必要な要素として、頻繁に「想像力」と「バランス」という言葉が登場する。
そして、その能力?が最も露骨な形で現れるツールとして、SNS特にtwitterを持ってくる。

奇しくも、35になるおじさんは、twitterを本格的に初めて3か月。それまではFacebook派だったので、twitter vs Facebook問題は遅まきながら自分にとってリアルなテーマなのである。

おじさんは、ひねくれた方向に真っ直ぐなので、Facebookの承認欲求願望に飽きてきた。
twitterの最大のメリットは、くだらなくて、今つぶやかないと、絶対すぐ忘れちゃうよ、ということをパッとつぶやくことができることと、フォローしている人の「お、いいこと言うじゃん」とか、「これ、いただいとこ」というつぶやきをタイムラインに残すべく「ポチっと」リツイートor お気に入りに登録 できることである。

そういう意味で、この小説の登場人物たちが、いくら就活情報を得るためとはいえ、リアルな友人同士がtwitterで近況やらなんやらをつぶやいていることにまず違和感があった。
 twitterって、リアルじゃないけど、この人、きっと自分と趣味あうよ、という半ば妄想に似た想像が醍醐味なんじゃないの?

もちろん、有名人はじめとした公人のアカウントは、きちんと社会(or ふぉろわー?)に発信するという意味を持つだろう。でも、ほとんどの人は私人であり、私人だけど、たまには公人みたいに偉そうにつぶやいてみたいという欲求にも応えてくれるツールだと僕は認識している。

だから、twitterでの人格が、FBでの人格とまるっきり違う。これはいいと思うんだが、twitterのアカウントを2つ持って、使い分けるということろが、まず今一つピンとこない。「疲れないか?」と問いたい。そして、両方とも私人として、片方では当たり障りないことを、そしてもう片方では毒を吐きまくる ことって、ものすごく露悪趣味だろう。
 結局のところ、この小説は、観察者で俯瞰的にモノを見ていた主人公が、そうやって優位に立とうとしたが、現実の自分の卑小さを、ひょんなことから指摘されて、自分の卑小さを受け入れるストーリーとしか思えなかった。

 リアルなところは、「一億総評論家時代」とも言うべき、「匿名による批判」の問題だろう。しばしば、有名人のtwitterが炎上する。SNSは、理想の自分に比して現実にはうまくいかない自分のストレスのはけ口として機能してしまっているという問題点は正しいと思う。

アカウントを使い分ける、ということは今の若い世代はどの程度やりきっているのだろうか?
分人はリアルの世界だけのものではないとは思うが、自分で演じたりコントロールできるものではない、というのが平野さんの主張だ。

僕は、この小説は、最後に主人公の破綻という形で終わるというどんでん返しという意味では、まあまあ良くできていると思うが、その破綻が唐突に他者により語られるだけ、というところが不満だ。内部から崩壊していくべきテーマだと思う。まあ、そうするといやでも「病気」にならないといけないんだけど。でも、現実には、そっちのほうが多数でしょう。

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