2012年9月21日金曜日

くるり 坩堝の電圧 とりとめもない感想

「魂のゆくえ」ぐらいから、ネガティブな発言が続いて音楽も内向的になっていった印象のくるりが、B面ベストで一度彼らの歴史を顧みて、「言葉にならない笑顔を見せてくれよ」では、「温泉」や「目玉のオヤジ」で日常の些細な一コマの素晴らしさをさらりと仕上げた。

 その後、震災とメンバーの加入・脱退を経てたどり着いた本作。
 「Dog」や「o.A.o」のような、前作からの流れを汲んだ日常的なサラッとした清涼感のある曲もあるが、世間でも言われているように初期のくるりに戻ったようなバンド感満載のサウンドと熱さが特徴なのは一回聴けば明らかなのだが、やっぱり、その熱さの根底にあるのは反原発を基軸とした痛烈な政治や社会への批判と皮肉に満ちた「熱い想い」に違いない。岸田を原点回帰にもたらしたものが、皮肉にも大震災という「初めて人の不幸を自分のことのように感じた」経験が、そしてその後の世界の変化への違和が熱さにさらに火をつけたのであろう。

 とはいえ、そこは、ちょけでひねくれ者の岸田である。ストレートに「進め、進め、走れ、走れ」と表現はするが、2chで揶揄されているような、長渕剛とは180°違う。

 とにかくサウンドのバラエティーが豊富であること。19曲あって中だるみしないというのも凄いが、このアルバムには至る所に「曲同士のつながり」を見て取ることができる。plutoがcrab, reactor,futureの高速逆回転を利用して作られた実験的なサウンドで、その直後にボブ・ディランのような風刺曲が響くのも爽快だ。argentinaの後に続くfallingも、サウンドがそのままつながって行くように感じられる。
 そして、somaと沈丁花に至っては、ジャケットがsoma沈丁花と青と赤なのだが、この2曲は3.11後の、近過去と未来を唄った表裏一体の曲だ。「息子」は生まれた時には砂漠の中にいて、咲くこともできなかった沈丁花だが、「あてにせず、あせらず、あきらめず」「進み 走り 泳ぎ もがき」 「どこまでも続くこの道を 浜のほうへ 行くんだよ 産まれた場所へ いざなおう」と続く。これが岸田の願う相馬の未来そのものではないか? taurusやdogのような日常も、生きている限り続いて行く。時速300kmで走ることのできない僕たちは、それでも、文明の象徴たる「のぞみ1号」に励まされて、「生かされている限りは立ちはだからなければならない」

 3.11後に京都に引っ越した岸田は、「papyrus」のインタビューで、「ずっと前から東京は住みにくく、飽和していて、がんばらないと生きていてはいけないような感じがしていた」と語る。
しかし、京都に移った今でさえも、自分がどこに所属しているのかがわからないと言う。
当たり前に実家はあり、当たり前に毎日家に帰る。大震災で家ごと失った人の帰属感の喪失とは、どのようなものであるのか?
 東京に住み始めて17年たつ僕も、ここ数年彼が述べていた思いと同じような気持ちになることが多い。僕は東京で仕事をしているので、当たり前に毎日を過ごしているのだが、自分の身の丈にあった仕事ができる環境は東京ではないのではないかと思うこともある。

 「glory days」 は、彼自身がくるりの過去と現在の思い出を交差させながら、このように締める。

“ときおり 思い出せよ 無くなってしまった過去も
誰より知りたいはずの 未来も”

人は、たぶん年を取れば取るほど、思い出に強く影響される生き物だと思う。
思い出があるから、今の自分があるのだし、もしかしたら、「帰属感」というのは、ありきたりな言葉だと「ふるさと」だし、「母校」だし、「安心な僕らの旅」だし、「君が素敵だったこと」だし、「裸足のままで行く、何も見えなくなる」ことなのかもしれない。

でも、たぶん「今のくるり」が伝えてくれることは「everybody feels the same」なんじゃないかな?世界を越えて音楽は人の心に通じる。そして、everybodyは、クマバチも牡牛も、犬も、チャイナドレスも、アルゼンチンの電車も 。

そして、何より、somaで唄われる、どこまでも青い空の「未来」を想像し、ときどきは、「そんな未来を思い出せよ=(希望を持って)思い描けよ」と言ってくれているのだと思った。

過去と未来は一方通行の時間軸ではなくて、このアルバムが示すように行き来しながら一つの作品(人生)となる。その作品を形作るものは、植物や生き物や、使い古された電車や、挫折感に満ちたシューズや、喝を与えてくれる香辛料など、まさに「坩堝」だ。
 僕たちの未来は、きっとそんな坩堝の電圧が持つエネルギーにより規定されるのだろう。そんな強度を持ったアルバムだな。

明日は京都音楽博覧会。

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