2012年9月2日日曜日

一冊の本 135回 行雲流水録 橋本治 を読む 

斎藤環の「世界が土曜の夜の夢なら」が売れているらしい。サブタイトルが「ヤンキーと精神分析」。確かに面白そう。身の回りにいるけど、自分はなれない、なりたくない的なアウトロー。
 この本を発端に、今の日本がオタクとヤンキーを基調としてできあがっていて基軸がないと論が進む。

 なるほど、ヲタとヤンキーは、「そこらへんにいて、ネタにすると面白いけど、自分はなれないし、なりたくないし、友達にもなりたくないし、だから自分はノーマル」みたいな両極端な対象なのかもしれないな。

 「サブカルチャーとは通過儀礼である」

この言葉がすごく腑に落ちた。「通過儀礼としての必然」であって、「下らないから弾圧すべき対象」では断じてないはずだ。。。

 でも、日本人は豊かになり、自由になったから、「通過儀礼のトンネルを抜けなくても良いと思える人が当たり前にいる時代になった」というわけか。

 研究医のときに、「モラトリアム真っ只中だ」と上司に叱責されたことを覚えている。それに対して、「小言を言ってばかりで柔軟な発想を持てない上司なんて羨ましくも何ともないな」と思った。でも、きっとその上司は、職業人としてトンネルを抜けた後の世界を見て欲しかったんだろうなと思う。

 オタク文化は「当人の内面にフィットする」を前提にしていて、自分の内面を問題にしたがる人たちが多いから、結果として学問分野がどんどん「私の内面化して」いく。
これって、Twitter やFacebookでも普通に見られる現象だなあ。Social networkとは名ばかりで、自分と自分に対するイエスマンだけの、「心地よいプライベート空間」に浸る。ヲタ文化と同じなんだ。
 
 ヤンキーとは、反知性的で根拠なく前向きで、美意識がバッドセンスであるということらしい。ヤンキーの持つ「自分を嗤う」という要素は認めつつも、その決定的なバッドセンスな美意識が筆者にはどうにも受け入れがたい。私、政府や東電やメディアや、その他諸々のツッコミ対象について、ドヤ顔と上から目線で堂々と無自覚に「ダメ出し」する人たちは、ヤンキー的な要素を孕んだ美的センスのない人たちだと思う。

筆者の言う「日本の美意識」は「過剰をおそれず、しかし引き算を忘れず」だという。
そうか、「いとをかし」も「恥の文化」も「人間の業の肯定」も引き算だ。
当たり前のこと。豊かな日本における自由とは、文化的な規制のなさという負の遺産も産み出してしまったのか?

筆者は、「受け入れられないけれど、それが必要な人もいるのだから否定はすまい」という。まさに引き算を忘れず、だ。
 ここでも思う。想像力があれば、人間はそんなに確信的な行動はしないはずだ、と。

自由が人間の想像力を奪っている。溢れる情報と、情報の効率化によって。

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