2012年12月4日火曜日

私とは何か 平野啓一郎 を読む

 先週末に、新刊「空白を満たしなさい」とともに、購入。
平野啓一郎は、処女作「日蝕」で芥川賞を取った時のインパクトが強い。
当時大学生だった僕は、書店で本を手にして全く読み進められずに終わったことを憶えている。そんな彼が、個人に対して「分人」という概念を提唱し、前述の新作ではモーニングでの連載を行ったということで、改めてチャレンジしてみた。

 小説の感想に関してはいずれまた記したいと思っているが、この200ページ弱の新書も、彼の著作を通して描いてきたことを語りながら、「分人」の誕生と分人主義によるさまざまな考察を進める。

 大震災と原発事故の後、中沢新一の「日本の大転換」の中で一神教の弊害と資本主義、原発神話に関しての考察を目にして以来、西洋的なキリスト教思想が日本においてどのような位置づけになっているのか気になっていた。
 平野は、「個人(indivisual) 」は、明治以後に西洋から輸入された言葉であり、一神教をベーストした西洋文化に独特のものであると述べる。西洋の恋愛観も、それゆえ、お互いを「唯一神」とするような個人を単位としたものである。
 それに対して、自分と他人の関係の中で継続的に、絶えず変化し続ける「分人」の総体が「個」であり、「本当の自分」というものは一つではない、と述べる。これは、全ての自然やモノに神が宿る、多神教的な考え方なんだろうと思う。

「自分か世界か、どちらかを愛する気持ちがあれば、生きていける」
  数ある自分の分人のうち、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。
 そして、その足場となる分人は、生きた人との関係性限らず、詩でも小説でも、音楽でもかまわないという。文化というのは人間に、ポジティブな分人を与え得る装置といえるのではないか?そして、それこそが自分を肯定するための入り口だと言う。

 分人主義的な考え方によって、ネガティブシンキングをポジティブシンキングに変えられるのか?という疑問はある。好きな分人を足場に出来ない人は、何から始めれば良いのか??
 筆者の言葉を自分なりに解釈すると、「自分を愛するために他者の存在が不可欠であるという逆説」を知り、他人と関わりを通して好きな分人が増えるように努めること、となろうか?
 さらに4章で、愛情とは継続性を期待されるものであり、持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のおかげで、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さであると述べる。
 
 分人の考え方は、個人(個性)とは相手を通した自分の総体みたいなものだから、その関係性は常に双方向である。だから、逆に自分が念ずれば、とか、自分がこうすれば、という主体性だけではどうしようもないことが多いと思う。はっきりいって思い込みが強くてコミュニケーションが苦手な人には、結構辛い概念だとも思う。嫉妬・ストーカー・自己卑下・・・
 でも、逆に、このような考え方をベースに「双方向なのだから、相手のことを思いやらないといけない。それは自分に返ってくるものだから」とみんなが思うことができれば、と理想論を語ってみる。。。

最も面白かったのは、死者との分人についての件。訃報の悲しみが遅れてやってくるのは、相手との分人が、関係を必要とする段階で初めて不在を痛感する。大江健三郎の「文章を書くことで死んだ友人を自分の中に取り込んでしまう」ということ。故人について語る資格がある人は、故人との分人が消滅しきれずに、語る言葉の半分が故人のものであるということ。。死んだ後も、人は、他者の分人を通してこの世界に残り続ける、という死生観。これは、とてもよい言葉だと思う。年齢とともに、人間は死者との分人を否応なく抱え込んでゆくのだ。仏壇に語りかけるのは、時々その死者との分人を生きてみること。

SNSの時代、共同体の解体が叫ばれる時代、やたらと絆という言葉が一人歩きする時代。
同世代を生きている作者をこれからもフォローしていこうと思う。






http://www.amazon.co.jp/私とは何か――「個人」から「分人」へ-講談社現代新書-平野-啓一郎/dp/4062881721

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