2012年12月19日水曜日

システムを変えるということ

 脱官僚をスローガンに掲げて、撃沈した民主党。政権に返り咲いた自民党安倍総裁も、
早くも公務員制度改革を掲げ、デフレ脱却に向けた日銀に対する金融緩和の要請を強める構えである。
 
 さて、私が最近思うのは、「本当に官僚=悪、なのか?」という素朴な疑問である。
もちろん、天下りの横行、利権の温床、という「官僚的体質」が、政財官癒着を産み、腐敗体質を作ってきたのは事実であろう。しかし、経済成長期のズブズブだった時代はもうとっくに終わっている。「今も官僚たちってそんな考え方なの?」である。

 最近、元官僚の評論家がやたらテレビに出てわ、官僚批判を繰り返している。官僚から政治家に転身する人も多い。しかし、彼らは多くが高学歴エリートである。経済・外交・教育などの専門家に違いない。その人たちが、元来性悪であるというふうには思いたくないではないか? やっぱり、官僚自体がもともと悪人であるというのではなく、官僚内部の組織の体質と、政官の関係性のねじれの中で、そのようなキャラクターが作り上げられてしまう、のではないか?と思うのである。

 たとえば、一向に改善しない縦割り行政。意思決定の仕組みが、組織の利得や力関係を前提にしているとすれば、どう考えても大衆の必要とする政策は実現されない。なんとなく、若い人たちの間で意見交換を交わすというムードさえも許されていないのではないか、と勘ぐってしまう。
 唐突だが、医師の世界でも、科の垣根を越える診療というのが難しいと感じることがある。自分の領域の病気の検査をして、異常がなければ「ウチの病気ではない」と言って、他に回す。医療なんて万能じゃないんだから、原因がわからないことなんていっぱいある。そういう前提に立ちつつ、どこまで患者のために関わるか(関わるべきでないか、という問題も含まれる)を常に客観的に判断することが必要である。
 そういう中で、総合内科や家庭医診療、総合救急、緩和ケアなど、垣根を越えた1患者をトータルで診ていくという領域が浸透してきて発展してきているという現実は、これまでの組織の在り方では立ちいかないシステムを変えていこうとするものである。
 
 おそらく官僚も、また、政治家と官僚の関係も、その関係性のシステムを変える時が来ているのだと思う。そして内部ではもう変わってきていると期待したい。

 しかし、そこでネックになるのが、例の?東大話法である。安富歩が書いている「東大話法」は、極端な書き方でいろいろと賛否両論であると思うが、多くのエリートが、自己実現の過程で多かれ少なかれ内在しがちな考え方は、やっぱり「柔軟なコミュニケーション」を阻害するものでしかないと思う。ニーチェは、大衆は愚かであり、語りかけても無駄であると悟ったわけだが、そこで思考停止しても仕方がないではないか?

 柔軟なコミュニケーションの中で、ゆるやかにつながりながら、新しいシステムを作っていくこと。一人一人が考えるべきはこれだと思うのだが。

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