2012年3月28日水曜日

死生観−1

自分の死は、その少し前から自分のものでなくなり、もはや死自体は自分の手を離れる。
一方、老人は生に執着し、生きてる人間の多くは、死は「自分はまだしばらく大丈夫だろう」と思う。
 ありきたりだが、死に向かってどのように生きることを自分が重要と思うか?
「明日世界が滅びるとして、誰とどこへ行き、何を食べますか?」という質問は、元気な体と食欲、愛をもった肉体に宿る「有限の明日」という前提で成り立つ。
 しかし、多くはそうではないだろう。
 衰える時は、みるみる衰える。急に食事をとることが難儀になる。それでもなかなか死にきれず、入退院を繰り返すものだ。

 果たして、他人にとっての自分の存在意義はいつまであるのだろうか?
 
 ゲノム解析の果ての、降水確率のごとき「疾病発症確率」が、転ばぬ先の杖で幸福な明日を保証してくれるだろうか? しかし、人間はそういうものにお金をかけるように出来ている気がしないでもない。

 三木清の人生論ノートは、素晴らしい本だ。続きはまた明日にでも。

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